歴人マガジン

【山陰に麒麟がいた?!】名将・山中鹿介の生涯、明智光秀との知られざるエピソード

山中幸盛(やまなか ゆきもり)という武将を、ご存じだろうか。一般的には通称の鹿介(しかのすけ/鹿之助とも表記)という名前のほうが、よく知られているかもしれない。

山中鹿介幸盛 天文14年(1545)?~天正6年(1578) (安来市教育委員会所蔵)

 

山陰地方、出雲国(島根県)の出身と伝わり、地方別の「武将ランキング」では尼子経久などと並んでトップクラスに入るなど、山陰の「麒麟」と呼ばれる英雄。2020~21年の大河ドラマ「麒麟がくる」では出番なく、スルーされてしまったが、実は織田信長や明智光秀との関わりもあった鹿介。その魅力を改めて、地元・島根県安来市の史跡写真とともに紹介したい。

戦場では、長さ六尺もある鹿の双角のついた兜をつけ、がっしりとした体格は味方にとって頼もしく、いつしか「鹿介(鹿之助)」と呼ばれるようになったという。そのように『名将言行録』などの後世に編まれた逸話も多いが、鹿介には戦場で発揮された武勇の片鱗を感じさせる話がいくつも伝わる。たとえば、こんなものがある。

月山富田城跡(島根県安来市)に建つ山中鹿介の像(撮影・上永哲矢)

一人で数十人の毛利勢を追い散らす武勇伝

永禄5年(1562)、鹿介18歳のころ、毛利元就が大軍で攻め込んできた。毛利勢が尼子(あまご)領内の麦や稲を刈り取る略奪を繰り返したため、鹿介は敵を食い止めようと民家に隠れて待った。30~40騎が来たので、鹿介は踊り出て先頭のひとりを斬って落とす。続く者たちが馬から降りて向かってくるのを次々と討ち、16~17人も斬り伏せたところ、残りの者らは恐れて逃げてしまったという。

鹿介が仕えていた尼子氏は、戦国時代には「十一ヶ国太守」と呼ばれた尼子経久(1458~1541)、その孫にあたる晴久(1514~1561)が最盛期を築き上げたが、晴久が47歳で突然に世を去ると、その勢いも急速に衰え始める。

月山富田城下に建つ、尼子経久の像(撮影・上永哲矢)

代わって台頭したのが、安芸(広島)の一豪族に過ぎなかった毛利元就だ。尼子氏は毛利の攻勢に防戦一方となり、永禄9年(1566)、ついに本拠地の月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)が包囲された(月山富田城の戦い)。

一騎討ちで毛利軍の猛将をみごと討ち取る

この戦いのさなかにも、鹿介は武勇伝を残す。尼子氏の記録『雲陽軍実記』 など複数の記録にある、毛利方の将・品川大膳(だいぜん)という猛者との一騎討ちだ。
両雄は一時(2時間)あまりも戦ったのち、不利になった大膳が武器を捨てて「組討ちで勝負を決めよう」と提案。鹿介はこれに応じ、取っ組み合いになった。力に勝る大膳は鹿介を組み伏せるが、鹿介は下から腰刀で大膳の足を突いて抵抗。怯んだ大膳を跳ね飛ばし、ついにその首級をあげた。

山中鹿介と品川大膳の一騎討ち碑(島根県安来市)

「石見の国より出でたる狼(大膳)を、出雲の鹿が討ち取ったり!」と、鹿介は叫んだという。この勝利は味方を大いに勇気づけたが、不利な戦況を覆すには至らなかった。籠城戦ののち、兵糧が尽きた尼子義久は降伏し、安芸へ幽閉されて毛利の軍門に屈する。名門・尼子氏はここに滅びた。

しかし、鹿介は叔父の立原久綱らとともに出家していた尼子勝久を擁立して、御家再興のための戦いを始める。こうした逆境から、鹿介は常に「我に七難八苦をあわせてお与えください」と唱えていたという逸話(『名将言行録』)も生まれるなど、忠臣としての人物像が強く形付けられていった。

麒麟がいる? 明智光秀との交流を示す記録

「麒麟がくる」と「麒麟がいる」ポスター(島根県安来市)

「山陰の麒麟」の誉れ高い鹿介と、2020~21年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。地元の島根県安来市では市の職員が鹿介に扮し、「麒麟がいる」というキャッチを配した、こんなユニークなポスターも制作、掲示されているが、単に大河ドラマにあやかっただけでない。実際に鹿介と光秀の交流を示す貴重なエピソードも残っているので紹介しておきたい。

さて尼子氏再興をかけて、鹿介ら尼子の残党たちは京都に潜伏し、織田信長を頼り、その軍に与することになった。信長に面会した鹿介は「良き男」と絶賛され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったという逸話もある。その後、信長の命令で、鹿介らが付き従ったのが明智光秀だった。天正4年(1576)には光秀に従い、但馬の八木城攻め、丹波籾井城攻めに参加したとの記録もある。籾井城攻めで敗退した折には、鹿介は殿(しんがり)を務めて味方の退却を助けたという。

こうしたなか、鹿介は明智光秀や、その家臣・野々口丹波という者と親しく交流するようになった。あるとき野々口に「それがしの家においでください」と誘われ「では参上いたしましょう」と約束した。その直後、明智光秀から直々に「今日は風呂を炊いたから、いらっしゃい」と誘いがあったが「ご家来の野々口さまと先約が」と断りを入れた。

それを聞いた光秀は「これで鹿介を饗応せよ」と鷹一羽、鮭一尾を野々口の家に届けさせたという。これは幕末から明治初期に成立した『名将言行録』の記載なので、どこまでが真実かは分からないが、鹿介の誠実な人柄を偲ばせるような逸話ではないかと思う。また、明智光秀は公家の吉田兼見の自宅で風呂を借りたことがあったと一次史料(『兼見卿記』)に記載されているので、実際にこのような交流があったのではないかという一抹の真実味を感じさせる。

その後も鹿介は、織田信長の毛利氏攻めに従って戦うが武運もそれまで。天正6年(1578)7月、上月城の戦いに敗れた尼子氏は再び滅亡し、鹿介も捕えられた。その後、護送される途中の備中高梁川の「阿井の渡し」で無念の最期をとげる――。

地元・安来市を訪ね、その遺徳に触れた

安来市立歴史資料館(島根県安来市広瀬町町帳752)
TEL 0854-32-2767  開館9:30~17:00 毎週火曜日と年末年始は休館 一般:210円

鹿介は、斜陽の尼子氏を裏切らなかったばかりか、御家再興までめざしたことから勇猛なだけでなく「忠臣」としての評価も高い。

「裏切りが当たり前の乱世で、鹿介こと幸盛の生きざまは後世の日本人に高く評価されました。頼山陽(らいさんよう)は『麒麟を見る』と詩に詠み、勝海舟は『氷川清話』のなかで、鹿介を『忠臣蔵』の大石内蔵助(くらのすけ)と並び称しました。昭和10年代には小学校の教科書に『三日月の影』と題された鹿介の生涯が紹介されました」

そう説明してくださったのは、安来市立歴史資料館の館長・平原金造さんだ。この資料館は、鹿介が活躍した島根県安来市の月山富田城下にあり、鹿介の肖像画や、往時を再現した城のジオラマ(三浦正幸氏監修)が展示されるなど、なかなか見ごたえがある。

月山富田城と城下町のジオラマ(安来市立歴史資料館)

また地元・安来市広瀬町では、鹿介を偲ぶ祭事『幸盛祭』(ゆきもりさい)が毎年秋に開催されている。

「この祭は昭和初期から始まっていて、現在も山頂を目指して駆け上がる幸盛マラソン、歴史講話などが行われます。私の子供のころは、月山富田城の本丸に登っての野試合がありました。朝から開催されていたんですが、幸盛祭のときは学校に遅刻しても怒られなかったんですよ(笑)」

平原館長は子供のころの思い出話をしてくれた。そんな話を聞くと、出雲の人びとにとって、鹿介がいかに大切な存在であるかが分かる。

一面、雪に覆われた月山富田城と平原館長(撮影・上永哲矢)

今年の初め、月山富田城を取材に行ったのだが、数日前からの降雪で城内すっかり雪に覆われており、中腹の山中御殿(さんちゅうごてん)まで行くのがやっとの状況だった。そこから急峻な一本道「七曲り」を登っていけば山頂部の本丸や二の丸に行けるのだが、この日は断念した。

月山富田城 山中御殿(安来市観光協会 提供)

代わりに、通常時の月山富田城・山名御殿の写真を掲載しておきたい。月山富田城は標高約190mの月山に築かれ、170年間におよんだ尼子氏六代の盛衰の舞台となった山城である。本丸に鎮座する勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前からあったとも伝えられる。

七曲り、本丸から見下ろす町の景色は実に壮観で、尼子経久や鹿介もこのような風景を眺めていたのだろうという感慨に浸ることができる。

月山富田城 七曲りからの眺望(安来市観光協会 提供)

よく整備されていて登りやすく、また吉川氏や堀尾氏の時代に築かれた苔むした石垣など、いかにも山城らしい遺構も多く残されている。そのため山城マニアや城好きの間でも人気が高い。

月山富田城の古地図

毛利家に奪われた月山富田城は、関ヶ原の戦い以後、堀尾氏が城主となるも、慶長13年(1608)から平地に築かれた近世城郭の松江城(島根県松江市)へ拠点を移し、領国の本拠としての役割を終え、その後、廃城となった。

国宝・松江城天守(島根県松江市)撮影・上永哲矢

松江城は国宝天守として有名だが、月山富田城との歴史的なつながりを理解すると、より興味深く見ることができるだろう。ぜひ、月山富田城と松江城とはセットで見ておくべきかと思う。春を迎え、暖かい時節が到来したおりは、あわせて訪ねてみてほしい。

どじょう料理、温泉・・・山中鹿介を訪ねる島根県安来市の旅の見どころ

カフェ桜

月山富田城のそばにある古民家風のカフェ。店内では月山を眺めながら、ぜんざい、コーヒーなどが楽しめる。月山富田城や鹿介ゆかりの地めぐりの合間には、ぜひここで休憩しよう。

カフェ桜
島根県安来市広瀬町広瀬2207-1 三日月公園ふれあい館内
TEL.090-3168- 8971 10時~15時 休み/火・木曜

 

安来節演芸館

安来市といえば、江戸時代に発祥した「安来節」(やすぎぶし)で有名。歌い継がれてきた民謡、どじょうすくい男踊り・女踊り、銭太鼓などのユーモラスかつ伝統的な演芸。とても面白いので、何度でも観たくなってしまう。

また隣接するお食事処「どじょう亭」では柳川鍋定食などの「どじょう料理」や、出雲そばなどのご当地名物をたっぷりと味わうことができる。本場のどじょうは、格別に美味しい。

安来節演芸館
島根県安来市古川町534 TEL. 0854-28-9500 営10時~17時 休み/水曜

 

さぎの湯荘

豊かな自然に囲まれた温泉郷・さぎの湯温泉。その昔、白鷺が足の傷を癒した伝説があり、神亀年間(724~729)に発見された古い湯治場だ。さぎの湯温泉には数軒の温泉旅館がある。宿泊はもちろんのこと、日帰り入浴もできて、疲れた身体をのんびりと癒せる。そのうちの一軒「さぎの湯荘」は広々とした内湯に加え、開放感抜群の露天風呂もある。

さぎの湯荘
宿泊料金、日帰りの時間などは公式サイトまたは以下へお問い合わせを。
島根県安来市古川町478-1 TEL.0854-28-6211
https://www.saginoyusou.com/

 

清水寺(きよみずでら)

瑞光山の山腹にあり、かつては48もの僧坊を有し、山陰一の天台宗の大霊場だった。尼子・毛利の戦火に多くの建物が焼失したが、5万坪の境内には兵火をまぬがれた「本堂」など県や国の重要文化財も数多く残る。荘厳な雰囲気のなか、境内には「紅葉館」「松琴舘」という2軒の老舗旅館があり、宿泊はもちろん、精進料理を味わうこともできる。また境内には山中鹿介が使用したと伝わる槍砥石(やりとぎいし)などの見どころもある。
鹿介たちが活躍するよりも以前から建つ古刹で、遠き日々や名将たちの面影に触れてみてはいかがだろうか。

清水寺
島根県安来市清水町528 TEL.0854-22-2151
拝観9時~17時(無休)
http://www.kiyomizudera.jp/

 

月山富田城下、巌倉寺(島根県安来市広瀬町)にひっそりと建つ中鹿介の供養塔

 

【取材協力・お問い合わせ先】
安来市観光協会/島根県安来市安来町2093-3
https://yasugi-kankou.com/
TEL.0854-23-7667

文・上永哲矢

 

あわせて読みたい関連記事

Return Top