古代から続く朝廷と新興勢力である武家政権が衝突した承久の乱。この戦いで幕府の権力は盤石なものとなり、鎌倉方の権力者だった北条義時は執権政治の基礎を固めました。しかし、それ以前まで絶大な影響力をもっていたはずの朝廷はなぜ敗北してしまったのでしょうか? また、そもそもこの戦いはなぜ起こったのでしょうか?
今回は、鎌倉時代に起こった承久の乱の背景や経過、戦後の影響、承久の乱が起きた理由などについてご紹介します。
承久の乱の背景
承久の乱が起こった当時、日本はどのような状況だったのでしょうか? 当時の幕府と朝廷について振り返ります。
幕府と朝廷の二頭政治
鎌倉を本拠として鎌倉幕府を開いた源頼朝は、東国を中心に守護・地頭を設置して各地を支配していました。しかし、西国では依然として朝廷の力が強く、この頃の日本は幕府と朝廷の二頭政治状態にあったのです。後鳥羽上皇は諸国に置かれた膨大な荘園から収入を得ていましたが、幕府の地頭が設置されたあとは年貢の未納問題などが起こりました。
朝廷復権を考える後鳥羽上皇は朝廷内部で独裁体制を固め、将軍・源実朝を臣従させることで幕府からも奉仕させようとします。しかし、実朝には実権がなかったため、北条氏らとの間でたびたび対立が起こっていました。
3代将軍:源実朝の死と後継問題
承久元年(1219)1月、実朝が甥・公暁に暗殺されます。これにより鎌倉殿の政務は北条政子が代行し、弟で執権の北条義時が補佐することになりました。幕府は後鳥羽上皇の皇子を新たな鎌倉殿として迎えたいと申し出ますが、上皇はある条件を出します。それは、摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職を撤廃することと、御家人・仁科盛遠への処分の撤回でした。盛遠は幕府の御家人から上皇の西面武士となりましたが、義時に無断だったため所領を没収されたのです。
この条件を拒否した義時は弟・時房に大軍を与えて武力で交渉させましたが、朝廷側は強硬な態度を崩さず交渉は決裂。幕府は皇族将軍を諦め、摂関家から九条道家の子・九条頼経を鎌倉殿として迎えました。
戦いの経過
将軍継嗣問題はしこりを残し、やがて幕府と朝廷の緊張が高まりました。そしてついに承久の乱が起こったのです。
北条義時追討の院宣が発せられる
朝廷と幕府の関係が破綻すると、後鳥羽上皇は倒幕の意思を固めます。土御門上皇や多くの公卿が反対する中、順徳天皇は懐成親王(仲恭天皇)に譲位し自由な立場になって協力。承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国から大勢の兵を集め、挙兵の準備を進めました。このなかには北面・西面武士や有力御家人、幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)の姿もあり、同じく京都守護の伊賀光季はこれを拒んだために襲撃され討死します。
そして、後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を発令。宣旨の効果を信じていた京方は、諸国の武士は自分たちに味方するだろうと確信していました。
動揺する武士に北条政子が名演説!
鎌倉の武士たちは上皇挙兵の知らせに動揺を隠せませんでした。義時追討の宣旨が発せられている以上、幕府方として戦うことは朝敵になることを意味します。そんな御家人たちを発奮させたのは、後世に語り継がれることになる政子の演説でした。幕府創設から頼朝に受けた恩を思い出すよう訴えた政子は、今こそ報いるときだと叫びます。これに心を打たれた鎌倉の武士たちは朝廷方と戦うことを決意し、義時を中心に結集しました。
鎌倉方の出撃と上皇方の誤算
鎌倉方では軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦する慎重論に対し、宿老・広元は積極的に京に出撃することを主張。政子の判断により出撃案が採用されると、幕府は早急に兵を集め東海道、東山道、北陸道の三方から進軍します。当初はわずか18騎で出発したものの道中で兵力が増加し、『吾妻鏡』によれば最終的に19万騎にまで膨れ上がったといいます。
幕府軍の出撃を知った後鳥羽上皇は予測外の事態に驚き、迎撃隊として17500騎ほどの兵を差し向けますが、幕府軍はこれを撃破しさらに進軍。その後、京方は総崩れになって大敗し、幕府軍は京を目指しました。
上皇方、大敗を喫する
後鳥羽上皇は当初、鎌倉の武士は離反するだろうと考えていました。しかし、そのようなことは起こらず、それどころか予想外の苦戦を強いられた京方は大混乱に陥ります。後鳥羽上皇は自ら武装し比叡山の僧兵に協力を求めたものの拒絶され、やむなく京方は全兵力を結集し宇治・瀬田で戦うことを決意。京方は橋を落とすなどして防戦しますが、幕府軍は多数の溺死者を出しながらも強引に渡河して敵陣を突破します。
こうして京方は敗北し、京へなだれ込んだ幕府軍は寺社や公家・武士の屋敷に火を放ちました。これにより後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を取り消し、この戦いは藤原秀康、三浦胤義らの謀略だとして逮捕を命じます。上皇に見捨てられた彼らは、抵抗の末に自害や幕府軍の捕虜となりました。
結果と戦後の影響
朝廷方の敗北という形で終わった承久の乱。この戦いはその後にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?
後鳥羽上皇らが配流される
朝廷方の敗北により後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡島へと配流され、戦いに反対していた土御門上皇は自ら土佐国への配流を希望しました。討幕に参加した公卿は処刑され、院近臣は流罪や謹慎処分に。京方の武士も粛清、追放されています。皇位については仲恭天皇が廃されたのちに後堀河天皇(行助法親王の子)が即位し、内大臣には親幕派の西園寺公経が就任。後鳥羽上皇の荘園は行助法親王に与えられましたが、支配権は幕府が握りました。
幕府の統制強化と六波羅探題の設置
乱後、京都守護に代わって六波羅探題が設置され、朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化されました。幕府軍の総大将である泰時・時房は、六波羅に滞在して朝廷の監視や西国武士の統率を行います。京方の公家や武士から没収した約3000ヶ所の所領は幕府方の御家人に分け与えられ、幕府の支配は全国に及ぶようになりました。
承久の乱がおきた理由とは?
承久の乱はさまざまな要因から起こったと考えられます。ここではいくつかの説をご紹介します。
倒幕が目的だった
通説では、承久の乱は後鳥羽上皇による倒幕が目的だったとされています。ただし、九条頼経の鎌倉下向を容認したことから、目的はあくまで鎌倉での幕府体制の打倒であり、幕府の存在そのものは認めていたとも考えられるようです。また、義時を幕府から排除するのが目的だったという見方もあります。
源氏将軍の血が絶えた
3代将軍・実朝は後鳥羽上皇と良好な関係を築いて累進しましたが、その死により武士と貴族の仲介役がいなくなってしまいました。朝廷にとって身内ともいえる清和天皇の血を引く源氏将軍の血が絶えたことで、朝廷が武力行使に踏み切ったとも考えられます。
地頭・荘園問題のもつれ
この頃、上皇や公家は広大な荘園をもち贅沢な暮らしをしていました。しかし、荘園の管理をする地頭が台頭し、年貢のすべてを領主に渡さず直接農民を支配するようになります。領主は土地を取られないようあらかじめ領地を半分に分けたため、貴族や朝廷の年貢が減りました。
このような背景の中、後鳥羽上皇は寵愛する亀菊が領家職を持つ荘園の地頭を罷免するよう義時に要求。しかし義時は、罪がないのに頼朝が補任した地頭職を改めることはできないと拒否します。承久の乱は、このような地頭・荘園問題のもつれによるものとも考えられます。
二元政治が終わり、武家政権が確立した
朝廷と武家政権の間で起きた武力闘争・承久の乱は、鎌倉幕府の圧勝に終わりました。この乱後、幕府は政治体制を主導し権力を強めていきます。承久の乱の一因とも考えられる源氏の断絶により、その後の鎌倉幕府は執権・北条氏が台頭していきました。