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【源頼朝の異母弟:源範頼】真面目で優しいゆえに殺された悲劇の武士

【源頼朝の異母弟:源範頼】真面目で優しいゆえに殺された悲劇の武士

源頼朝には、源義経のほかにも重要な役割を担っていた異母弟・源範頼(みなもとののりより)がいました。彼は異母兄である頼朝に従順に仕え鎌倉幕府に貢献しましたが、その真面目さがあだとなり失脚しています。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では迫田孝也さんが演じることが決まっていますが、範頼とはどのような人物だったのでしょうか?

今回は、範頼のうまれから挙兵まで、平家追討での活躍、戦後と晩年、源範頼の人物像などについてご紹介します。

うまれから挙兵まで

範頼はもともと頼朝の近くにはいなかったようです。うまれから挙兵するまでについて振り返ります。

源義朝の六男としてうまれる

範頼は源義朝の六男として誕生し、源頼朝の異母弟、源義経の異母兄にあたります。母は遠江国池田宿の遊女とされていますが、当時の池田宿は東海道の宿場で交通の要所だったため、遊女といっても池田宿の有力者の娘だったのではないかとも考えられています。当時は嫡男などを除いて母方が子供を養育することが多く、範頼は出生地の遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)で密かに養われました。そのため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」「蒲殿(かばどの)」などと呼ばれたようです。範頼の存在は平治の乱では確認されていませんが、応保元年(1161)以降、養父・藤原範季により保護されたのではないかと考えられています。

異母兄・源頼朝との合流時期は不明

『吾妻鏡』によれば、範頼は寿永2年(1183)に下野で起きた合戦に参加しています。頼朝との合流時期は定かではありませんが、これが初めて関東で活動した記録となっています。もともと範頼は出身地の遠江国を中心に甲斐源氏・安田義定らとともに活動していたようです。そんな中、甲斐源氏と頼朝が協力関係を結んだため、義定のもとから範頼が派遣されたとも考えられています。

平家追討での活躍

『大日本歴史錦繪』より、「右大将頼朝公平家追討として蒲冠者範頼源九郎義経両大将にて源氏恩顧の諸軍勢出陣を賀しゐ之図」

範頼はその後も平家追討で活躍し、九州遠征も担当するなど、頼朝のもとで手腕を発揮しました。

大将軍代理として大軍を率いる

寿永3年(1184)1月、範頼は頼朝の代理として源義仲追討の大将軍となり、義経軍と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦します。大手軍(敵の正面を攻撃する軍)を率いた範頼は広くゆっくりと瀬田へ進軍し、搦手軍(敵陣の後ろから攻める軍)を率いた義経は宇治を強襲。これは義経の独断による強襲とも言われていますが、義仲軍を逃がさないための連携作戦だったようです。義経の強襲が成功すると義仲は北陸に逃亡しますが、これを事前に察していた範頼軍は広げていた軍勢で追跡し、最終的に義仲を討伐しました。

一ノ谷の戦いで大勝!

『源平合図屏風』「一ノ谷」です。

寿永3年(1184)2月に一ノ谷の戦いが始まると、範頼は大手軍を率い、義経は搦手軍を率いて進軍。福原に本営をおく平氏に対し、範頼軍は東側から正面攻撃を行い激戦となります。その隙に西側に回り込んだ義経軍の奇襲により源氏軍は大勝をおさめ、戦いは2日で終息しました。これにより義経の評価は高まりましたが、範頼も勇将らを統率するなど手腕を発揮したようです。また、範頼は頼朝の代理だったため、配下に武功を上げさせる役割があったとも考えられています。同年6月、範頼は戦功により三河守に任じられ、最高責任者として同国を支配しました。

九州征伐で平家を一掃する

同年8月、範頼は九州征伐を任されます。これには、頼朝と対立し平家に与する西国の武士たちを鎮圧し、平家を孤立させるという目的がありました。頼朝はこの遠征を重視しており、頼朝の主力といえる武士団が参加しています。範頼ら遠征軍は長門国まで至ったものの、兵糧不足などにより進軍が停滞。翌年1月にようやく兵糧と兵船を調達すると、侍所別当・和田義盛ら鎌倉へ帰ろうとする武士らをとどめて博多・太宰府まで進撃しました。また、2月には頼朝から出撃命令を受けた義経が屋島の戦いで勝利し、3月には壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追い込んでいます。

戦後と晩年

九州征伐後、範頼にとっては予想外の心苦しい展開が起こります。彼はどのような晩年を過ごしたのでしょうか?

九州に残り、戦後処理に尽力

壇ノ浦の戦い後、頼朝の命令を受けた範頼は九州に残って戦後処理にあたりました。このころ頼朝から、従っている御家人達に問題があっても、勝手に判断して処罰せず頼朝を通すようにという伝令がきています。範頼はもちろんこの伝令に従いましたが、頼朝のもう1人の弟・義経は違いました。義経は頼朝の命令を守らず独自に行動し、専横や越権行為が目立ったため頼朝の怒りを買っていたのです。このような事情から、範頼が九州の行政に尽力しているあいだに、頼朝と義経は対立していきました。

源頼朝と源義経の衝突

やがて頼朝と義経の対立は深まり、兄から命を狙われていることを知った義経は頼朝追討の院宣(上皇の命を受けて出す文書)を得て挙兵。しかし、これに賛同する者は少なく、今度は義経追討の院宣が出され追われる身となります。義経は奥州へ逃げ延びたのち、頼朝の圧力を受けた藤原泰衡の討伐軍に襲撃され自害しました。その後、頼朝は奥州合戦に自ら出陣し、範頼は頼朝軍に従って出征します。この戦いにより奥州藤原氏は滅び、範頼にとってもこれが最後の戦いになりました。

謀反の疑いをかけられ……

静岡県伊豆市にある範頼の墓

建久4年(1193)5月、曽我兄弟による仇討ちで頼朝が討たれたという誤報が入ると、範頼は悲しむ政子に「後にはそれがしが控えておりまする」と述べました。この言葉が謀反の疑いを招き、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を送ったものの、範頼の家人・当麻太郎が頼朝の寝所の下に潜むという事件が勃発します。これは「範頼に謀反の意はない」と弁明するためのものでしたが、頼朝は逆に疑いを確信し、範頼は伊豆国・修善寺に幽閉されました。その後、頼朝に派遣された梶原景時に攻撃され自刃したといわれています。なお、この一件は政子の陰謀だという説もあります。

生存説も存在する?

範頼の死については多数の異説も存在し、伊豆国・修禅寺では死なず越前へ落ち延びて生涯を終えたという説や、武蔵国横見郡吉見の吉見観音に隠れ住んだという説などがあるようです。また武蔵国足立郡石戸宿には、範頼は生きながらえて石戸に逃れたという伝説が残されています。

源範頼の人物像とは?

さまざまな戦いで活躍するも悲しい最期を迎えた範頼。そんな彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。

源頼朝に忠誠を誓う真面目な人物

頼朝に従わず独自に行動した義経と比べ、範頼は頼朝に従順な人物でした。九州征伐の際、範頼は帰還するにあたって「海が荒れたので到着が遅れます」という細かい報告までしています。範頼の忠実な態度は頼朝に評価されましたが、これが義経の独断専行ぶりを際だたせる結果にもなりました。死後に有名になった義経と違い、派手さがなく地味な印象の範頼ですが、とにかく真面目な人物だったといえるでしょう。

兄・頼朝に逆らった唯一の出来事とは?

そんな範頼でも、唯一、頼朝に逆らった出来事がありました。それは、頼朝から「奥州へ逃げた義経追討軍の総大将をやれ」と命じられたときです。範頼はともに戦った同志でもある弟を討つことはできないと考えたのでしょう。しかしこの優しさが、のちに自分の首をしめることになりました。

確かな手腕の持ち主だった

範頼は『源平盛衰記』で「凡将」「無能」と評価されていますが、これは義経の武勲を引き立てるために範頼の活躍が矮小化されたとも考えられます。また九州征伐においての兵糧不足も低評価につながっているものの、これも頼朝が食糧問題を解決する前に出発させたことが原因だったと考えられているようです。

源頼朝に殺されたもう1人の弟

源頼朝の異母弟、そして源義経の異母兄として活躍した範頼。彼には優れた手腕があったものの、優しさと真面目さが裏目に出てしまい、最後には謀反の疑いをかけられ命を落としました。頼朝に殺された弟といえば義経が浮かびますが、実は範頼も同じように悲劇の運命を辿った弟です。その地味さから義経の影に隠れていますが、重要な軍事面を任されるなど優れた人物だったといえるでしょう。

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