源頼朝のもとで出世し、鎌倉幕府で盤石な地位を築いた大江広元(おおえのひろもと)。彼は頼朝の側近として重要な役割を担い、頼朝の死後も幕政に参加し執権政治の確立に寄与しました。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、栗原英雄さんが広元役を演じます。鎌倉幕府に人生を捧げたともいえる広元は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、広元が出世するまでの経緯、執権政治確立への尽力、広元にまつわる逸話などについてご紹介します。
源頼朝のもとで出世した広元
広元はどのような出自なのでしょうか? また、頼朝のもとで出世していった経緯などについて振り返ります。
大江広元の出自とは?
広元の出自は諸説あり詳細は不明ですが、源義家(八幡太郎)に兵法を教えた大江匡房(まさふさ)の孫で、学者の家柄である貴族・大江氏の出身と考えられています。『江氏家譜』によれば広元は参議・藤原光能の息子で、母の再婚相手・中原広季のもとで養育されたようです。その恩からか、大江姓に改める晩年までは中原姓を称しました。
ただし広元の出自は史料によって異なっており、日本の初期の系図集『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」では実父が大江維光、養父が中原広季とあり、『続群書類従』所収の「中原系図」では実父が中原広季、養父が大江維光となっています。
頼朝の側近として累進!
広元は朝廷で外記(公文書作成や公務記録をする書記)を務める官僚でしたが、広元の兄・中原親能は早くから頼朝に従っており、その縁で広元も鎌倉へ下って幕府公文所別当に就任しました。鎌倉に入ったのは、寿永2年(1183)7月の平家の都落ちのあとだと考えられます。公文所は公文書の管理や荘園の訴訟などを取り扱う幕府の行政機関で、別当は職務全体の統括を担当しました。兄・親能は広元の補佐役だったようです。
建久2年(1191)(文治元年(1185)の説もあり)に政所が開設すると、公文所は政所に統合され、広元は初代別当に就任します。ほかにも明法博士、左衛門大尉、検非違使に就くなど、当時では異例の人事だったようです。
朝廷との折衝を担当する
さまざまな役職を歴任した広元ですが、彼の重要な役目の1つに朝廷との交渉役がありました。広元は頼朝の使節として京都に滞在し朝幕関係の基礎作りに貢献したほか、平家追討の時期には頼朝の意思を伝える役目も担っています。もともと朝廷の官僚だった広元は適任だったのかもしれません。こうして広元は頼朝の側近として実力を発揮していきました。
執権政治の確立に尽力
鎌倉幕府の創立に関わった広元は、その後も執権政治の確立に尽力します。具体的にはどのような活躍をしたのでしょうか?
北条政子、北条義時に協調
頼朝死後に嫡男・源頼家が2代将軍に就任すると、広元は北条時政らと幕政に参与し合議制を完成させました。合議制が決まったのは頼家が将軍に就いてからわずか3ヶ月後のこと。表面上はまだ若い頼家を補佐するためのものでしたが、実際は頼家から独裁権を取り上げるためのものだったと考えられています。合議制は13人で構成されており、広元のほか時政、北条義時、和田義盛、比企能員、梶原景時ら有力御家人や頼朝時代からの忠臣がそろっていました。なお、この合議制はのちに設置される「評定衆」の原型とされています。
こうして権限を失った頼家は、幕府のシンボルに過ぎなくなっていきました。建仁3年(1203)、広元は時政とはかって頼家を廃し、伊豆の修善寺へと幽閉。頼家の弟・源実朝が3代将軍になると、武芸をすすめたり『十七条憲法』などの文献を奉じたりと文化的な側面でも協力します。また、北条政子や執権・義時と協調し、執権政治の基礎を築くことにも尽力しました。
和田合戦では義時方に
建暦3年(1213)侍所別当だった有力御家人・和田義盛による反乱が起こります。この和田合戦は義時が挑発したものともいわれており、広元は義時方に与していました。軍勢の召集や所領の訴訟などについて義時と連署した文書も残されています。
義盛が戦死し和田一族が全滅すると、政所別当だった義時は侍所別当を兼任。これにより鎌倉幕府における執権政治が確立されました。広元は義盛方に攻撃されたものの大きな被害はなかったようで、戦後は勲功として横山党の旧領地を与えられたと考えられています。また、この地に建てられた片倉城(八王子城)は広元が築城したという説もあります。
承久の乱で勝利に貢献する
広元は一時期、政所別当を辞職して隠棲(いんせい)していたようです。建保4年(1216)に陸奥守に任官されると、中原から大江に改名し政所別当に復職。『吾妻鏡』によれば、大江家の衰退により実父・大江維光の継嗣になることを望んだといいます。しかし翌年には出家し、覚阿(かくあ)と称して政務から退きました。
承久3年(1221)の承久の乱では、長子・大江親広が京都守護として後鳥羽上皇方に与したものの、広元は積極的な京都攻めを主張して幕府を勝利に導いています。こうして最後まで幕府のために生きた広元ですが、嘉禄元年(1225)6月、激しい下痢を伴う病気のためこの世を去りました。墓所は頼朝の墓の近くにありますが、言い伝えによれば広元の屋敷跡にある五輪塔が本来の墓とされています。
広元にまつわる逸話
鎌倉幕府創設に欠かせない存在だった広元は、どのような人物だったのでしょうか? 彼にまつわる逸話をいくつかご紹介します。
鎌倉幕府のナンバー2!?
広元は鎌倉幕府のナンバー2も同然の立場にありました。頼朝の存命中、広元だけは早くから正五位を許されていたといいます。頼朝の死後も最高実権者である義時を上回る地位を得ており、将軍に次ぐ存在として厚遇されていたようです。なお、十三人の合議制の名簿では時政、義時に次ぐ第3位となっています。
守護・地頭を献策
頼朝の功績の1つに守護・地頭の設置がありますが、『吾妻鏡』によれば、これは広元の献策だとされています。国ごとにおかれた「守護」は軍事・警察などの治安維持を行い、荘園ごとにおかれた「地頭」は年貢の取り立てを担当しました。これにより頼朝は対立する弟・源義経を追いつめることに成功し、無事に鎌倉幕府を確立させています。
源義経の「腰越状」
広元は御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」の役も務めていました。例えば、義経の有名な逸話「腰越状」もその1つです。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、頼朝の許可なく朝廷の官人に就任したり専横な行為をしたりしたため、鎌倉入りを許されませんでした。そこで義経は無実を訴えるための「腰越状」を出します。これは頼朝へのとりなしを願い、広元宛てに出されたものだったようです。
戦国武将・毛利元就の先祖
広元には多くの子孫がおり、諸氏にわかれて幕府の評定衆を受け継ぎました。四男・大江季光(すえみつ)は厚木の毛利庄に入り、毛利季光と改名して毛利家の祖となっています。これは戦国時代の毛利元就につながっており、末裔には幕末の長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)らが存在します。鎌倉幕府創設に尽力した広元の血筋は、後の日本にも脈々と受け継がれていったようです。
最後まで鎌倉幕府に尽くした
朝臣から頼朝側近となり、鎌倉幕府のナンバー2にまでなった広元。彼は、頼朝の死後も幕政に参与し政子や義時を支えました。晩年に起こった承久の乱でも幕府方に方策を講じるなど、最後まで鎌倉幕府に尽くした人物だったといえるでしょう。