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【文覚(遠藤盛遠)】源頼朝に挙兵を決意させた僧侶の一生と逸話

【文覚(遠藤盛遠)】源頼朝に挙兵を決意させた僧侶の一生と逸話

日本初の武家政権となった鎌倉幕府。その成立は源頼朝の挙兵なしにはあり得なかったでしょう。そんな頼朝の挙兵を促したといわれているのが、文覚(もんがく)という人物です。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、市川猿之助さんが文覚役を演じます。真言宗の僧として活躍した文覚は、どのような生涯を送ったのでしょうか?

今回は、文覚が頼朝と出会うまでの経緯、鎌倉幕府での台頭と頼朝死後の失速、文覚にまつわる逸話などについてご紹介します。

源頼朝と出会うまで

もともと文覚は武家のうまれでした。頼朝に挙兵を勧めるまでにどのような経緯があったのかを振り返ります。

19歳で出家する

文覚は、保延5年(1139)に父・遠藤左近将監茂遠(えんどう・さこんのしょうげん・もちとお)の子としてうまれました。俗名は遠藤盛遠(もりとお)。真言宗の僧としては、「文学」「文覚上人」「文覚聖人」「高雄の聖」とも呼ばれており、弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいます。

文覚は摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身で、北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王に仕えていました。ところが19歳のとき、従兄弟・源渡(渡辺渡)の妻を誤って殺したことで出家します。

後白河天皇への強訴で配流に……

歌川国芳による『六様性国芳自慢先負 文覚上人』

文覚は那智山にこもって滝行したり各地の霊山をめぐったりと修行に明け暮れました。そして仁安3年(1168)、空海を崇拝していたことから神護寺を訪れます。神護寺は延暦年間に和気清麻呂が高雄山寺を復興して氏寺にしたもので、空海が14年間住持し仏教の道場として栄えました。文覚が訪れたときには廃墟同然となっていたことから、修復しようと考えた文覚は後白河法皇のいる法住寺殿を訪れ神護寺再興を強訴します。しかし、強引なやり方が後白河法皇の怒りにふれ、北面の武士に捕らえられて伊豆国へと流されました。

源頼朝に平家追討を促す

『平家物語』では、文覚は近藤四郎国高に預けられ、奈古屋寺(現在の毘沙門堂)に身を置きます。そして、同じく伊豆に配流された源頼朝と出会い親交を深めました。文覚は頼朝の父・源義朝のものだという頭蓋骨を持って頼朝を訪ね、平家追討の挙兵を促します。頼朝は「自分は天皇からおとがめを受けている身なので、それが許されない限り謀反は起こせない」と断りましたが、それを聞いた文覚はわずか1週間ほどで後白河法皇から平家追討の院宣を入手し頼朝に差し出しました。これにより頼朝はついに挙兵を決意します。

鎌倉幕府での台頭

その後、平家と源氏の勢力図は徐々に変化していきます。そして、頼朝による鎌倉幕府で文覚は台頭していきました。

頼朝の挙兵に怒り狂う平清盛

治承4年(1180)の以仁王の挙兵後、平清盛は平家の拠点の1つである福原への遷都を強行します。孫にあたる安徳天皇、その母・建礼門院、また後白河法皇や高倉上皇も新都に移すことで、平家打倒の動きを止めようとしていたのです。しかし、遷都から3ヶ月後、頼朝が妻の父・北条時政とともに挙兵。清盛にとって頼朝は、平治の乱で敵だった義朝の嫡子であり、本来なら死罪だった人物です。ところが清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が助命を嘆願したことから、清盛は減刑して流罪にしました。そんな頼朝の挙兵を知った清盛は、「命を救われた恩を忘れたか」と激怒。頼朝勢を討伐すべく、孫・平維盛の率いる大軍を差し向けました。

念願の神護寺復興

京都市右京区にある神護寺

その後も平家と源氏による戦いは続きましたが、やがて清盛が死去し平家が衰退していきます。また、後白河法皇が頼朝と手を結んだことにより、源氏勢力が台頭しました。平家を滅亡に追い込み奥州藤原氏も討滅した頼朝は、征夷大将軍となって権力を掌握し鎌倉幕府を開府。この政権のなかで、文覚は幕府側の要人として活躍しました。頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺を再興させると、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など各地の寺院を勧請し、建物の修復などにも着手。また、神護寺の中興の祖として大きな影響力を持ったといいます。

頼朝死後の失速

幕府の要人となった文覚ですが、それは長くは続かなかったようです。頼朝の死後、文覚は失速していきます。

三左衛門事件で配流に……

まだ頼朝が存命中のこと、平家の残党狩りで多くの子供たちが殺されるのを見た文覚は、頼朝に維盛の嫡男・六代の助命を嘆願しました。頼朝は根負けしてこれを許可したといいます。

このように特別な立場にあった文覚ですが、頼朝の死後は立場が悪化し、将軍家や天皇家の相続争いなどの政争に巻き込まれました。正治元年(1199)2月には、権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとする三左衛門事件が勃発。通親は頼朝と結んだ九条兼実を排斥し、外孫・土御門天皇を擁立して朝廷の実権を握り鎌倉幕府に対抗した人物です。この事件は後ろ盾だった頼朝を失った一条家の家人が、形勢挽回のために起こしたものでした。

頼朝の死が引き金となったこの事件は大江広元を中心に鎮静化され、通親は幕府の協力で不満分子を一掃します。文覚はこの事件に連座して佐渡国へ配流され、文覚に命を救われた六代もこの時に処刑されました。

鎮西(大宰府)にて没す

その後、後鳥羽上皇の意向により三左衛門事件の関係者は赦免され、配流されていた文覚も召還されます。佐渡国から都に帰った文覚ですが、帰還からほぼ1年後に再び罪を問われて対馬に流されました。文覚はその途上、鎮西で数名の弟子に看とられながら死去します。「神護寺の山の京都の町がよく見下ろせるところに遺骨を置け」との遺言どおり、弟子の上覚らは文覚の遺骨を持ち帰り高雄山頂に祀ったそうです。墓所は京都府右京区の神護寺にあり、神護寺はその後、上覚によって引き継がれました。

文覚にまつわる逸話

波瀾万丈な人生を送った文覚。彼はどのような人物だったのか、残された逸話をご紹介します。

法力を持つ修験者だった!?

『平家物語』での文覚は、海の嵐を鎮める法力がある修験者として描かれています。頼朝に義朝の頭蓋骨を示して挙兵を促したり、後白河法皇による平家追討の院宣をわずか1週間ほどで頼朝にもたらしたりと、超人的な記述が多く見られるのもそのためでしょう。後鳥羽上皇の政治を批判して隠岐国に流されたものの、のちに上皇自身も承久の乱で隠岐国に流されたといういきさつも、ドラマ的な脚色がされているといえそうです。

親友の妻:袈裟御前に惚れて……

月岡芳年による『芳年武者无類 遠藤武者盛遠』

源渡の妻に手をかけた裏には、このような伝承が残されています。まだ盛遠と名乗っていたころ、彼は絶世の美人だった源渡の妻・袈裟御前に惚れました。あるとき袈裟御前が「夫はいつもあの部屋に寝ている」と口にしたため、両想いだと思い込んだ盛遠は、夜闇に紛れて渡の寝所に忍び込み刀を振り下ろします。しかしそれは、夫の身代わりとなった袈裟御前でした。この出来事により盛遠は仏門に入り、修行の道に救いを求めたといわれています。

源頼朝とはかなり親しかった?

『愚管抄』によれば、文覚と頼朝は「4年間、朝夕慣れ親しんだ仲」とされています。また『玉葉』では、頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、義仲の平家追討の過失や京での粗暴行為などについて糾問させたとの記述があります。史料の少ない文覚ですが、頼朝が六代の助命を受け入れたことからも、2人は近しい存在だったのかもしれません。

さまざまな作品で描かれた文覚

文覚(俗名:遠藤盛遠)は、近松門左衛門の人形浄瑠璃『平家女護島』や上方落語『袈裟御前』のほか、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』や菊池寛の戯曲『袈裟の良人』などでも描かれています。手塚治虫の漫画『火の鳥乱世編』では、文覚と遠藤盛遠が別々の人間として登場するなど、文覚はさまざまな作品でモチーフにされているようです。

源頼朝を挙兵させた僧侶

もともと北面武士だった文覚は、出家後に源頼朝と出会い、大きく人生が変化しました。数度にわたる配流を経験するなど波瀾万丈な人生を送りましたが、神護寺を復興させ中興の祖になるなど、文覚にとっては願いの叶った人生だったのかもしれません。しかし、特筆すべきはやはり頼朝を挙兵させたことでしょう。これにより日本の歴史は大きく変わったといえそうです。

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