福岡藩52万石の礎を築いた黒田官兵衛(孝高)といえば、天才軍師として有名ですよね。当時は織田信長が勢力を拡大していた時期で、播磨国(現在の兵庫県)姫路城主の長男として生まれた官兵衛は、豊臣秀吉の側近として活躍しました。キリシタン大名でもあり、出家後は如水(じょすい)を名乗っています。
そんな官兵衛には、「黒田二十四騎」「黒田八虎(はっこ)」と呼ばれる優れた家臣たちがいました。
ここでは、その中でも中心的人物だった4人の経歴や働き、残された逸話についてご紹介します。
黒田官兵衛の家臣たち
官兵衛を支えた家臣たちにはどのような人物がいたのでしょうか。まずは、黒田二十四騎や黒田八虎と呼ばれた人物をご紹介します。
黒田二十四騎と黒田八虎
黒田二十四騎とは官兵衛の家臣の中でも精鋭の24人を指したもので、享保年間の頃にはすでに成立していたといわれています。また黒田八虎は、黒田二十四騎の中から親族である弟たちや譜代重臣を選出したものです。彼らは官兵衛からその子である長政の時代まで長く活躍しました。
■黒田二十四騎(八虎を除く)
小河信章、菅正利、衣笠景延、桐山信行、毛屋武久、竹森次貞、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、久野重勝、堀定則、益田正親、三宅家義、村田吉次、吉田長利
■黒田八虎
井上之房、栗山利安、黒田一成、黒田利高、黒田利則、黒田直之、後藤基次、母里友信
筆頭家老:栗山利安(善助)
中心人物の一人が、黒田家の筆頭家老である栗山利安(善助)です。利安は最も頼りになる家臣として厚い信頼を受けており、家臣の序列では第1位でした。そのため、一老とも称されています。
経歴と働き
利安は、天文19年(1550)播磨国姫路栗山(現在の姫路市栗山町付近)で生まれました。永禄8年(1565)から官兵衛に仕え、その翌年には初陣、さらに3年後の青山・土器山の戦いではその活躍により83石相当の家禄を与えられています。その後も官兵衛が出世すると利安も加増されるなど、かなり厚い信頼を得ていたようです。
天正6年(1578)の有岡城の戦いでは、信長に反逆した荒木村重を説得しようとした官兵衛が有岡城に赴いて捕らえられてしまいますが、利安が翌年に官兵衛を救出しています。また、官兵衛の隠居後は、長政の朝鮮出兵に参加して功績を挙げました。その後も会津征伐や関ヶ原の戦いで武功を示し、最終的には筑前六端城の一つである麻底良城(まてらじょう)の城主にもなっています。
官兵衛親子とともに戦い続けた利安でしたが、元和9年(1623)長政の死去をキッカケに隠居しました。
残された逸話
利安は勇士として5回、采配で6回、合計11回も戦場で功名を挙げるほど武勇に秀でていました。しかしその戦いぶりとは反対に、常日頃から寡黙で礼儀正しく、控えめな人物だったといわれています。
道で誰かに会った際は相手の身分に関係なく必ず馬から降りてあいさつし、生活に困っている者がいると聞くとお金を貸し、返済の催促はしませんでした。自分の身なりも質素で、驕りも無かったようです。若者たちに、初心を忘れないよう説いていたという逸話も残されています。
重臣として活躍:井上之房(九郎右衛門)
もう一人の中心人物は、黒田職隆(もとたか、官兵衛の父)に小姓として仕えていた井上之房(ゆきふさ)です。通称は九郎右衛門といい、黒田家の重臣として活躍しました。
経歴と働き
之房は、天文23年(1554)に播磨国飾東郡松原郷(現在の姫路市白浜町松原)で生まれました。もともと職隆の小姓だった彼は、主君の没後は遺命により官兵衛の重臣として仕えます。天正15年(1587)の国人一揆では長政と共に姫隈城を攻め、文禄元年(1592)からの文禄・慶長の役では朝鮮に渡り参戦しています。その後も関ヶ原の戦いや石垣原の戦いで武功を挙げるなど、めざましい活躍を見せました。後には、筑前六端城の一つである黒崎城を築いています。
残された逸話
慶長5年(1600)、黒田軍と大友義統(よしむね、後に吉統)軍の間で石垣原の戦いが起こりました。之房がこの戦いで討ち取った吉弘統幸(むねゆき)は義統の家臣でしたが、義統が文禄の役で失態をおかし大友氏が改易となった後、官兵衛に招かれ之房の家に預けられていたことがありました。
統幸は秀吉から「無双の槍使い」と称賛されるほどの豪傑でした。しかし最期は、敵将を含む30~40人を倒したものの重傷を負い、自刃して討たれます。これは、旧知の之房に戦功を挙げさせるためだったといわれています。敵同士とはいえ、深い絆を感じさせるエピソードですね。
槍の名手:母里友信(太兵衛)
3人目は、槍術に長けた勇将として知られる母里友信(もりとものぶ/母里太兵衛)です。友信は利安と共に黒田軍の大将を務めた人物で、特に重用された黒田八虎の一人として知られています。
経歴と働き
友信は、播磨国飾磨郡妻鹿の国人・曽我一信の子として生まれました。父が職隆の与力のような立場だったため、友信も官兵衛に仕え始めたようです。青山・土器山の戦いで一族24人が戦死した際、官兵衛が母里家の断絶を惜しんだため、その後は母方の姓を名乗るようになりました。
初陣は天正元年(1573)の印南野合戦で、それ以降は常に先陣を切って戦っています。官兵衛に従って中国・四国を転戦し、九州征伐でも戦功を挙げ、文禄・慶長の役では長政に従軍し、関ヶ原の戦いでも活躍しました。生涯に挙げた首級はなんと76で、家中でも一番だったようです。
慶長11年(1606)には益富城主となり、長政から但馬守の称号を与えられています。
残された逸話
友信の逸話として、民謡「黒田節」にまつわるエピソードが残されています。
それは、長政の使者として京都伏見城に滞在中だった福島正則の元に出向いたときのことです。友信は正則に酒を勧められましたが、使者である手前、これを断りました。しかし正則はしつこく酒を勧めてきて、「飲み干せたら好きな褒美をとらす」と言い出します。さらには、「黒田武士は酒に弱い。酔えば何の役にも立たないからだ」と家をおとしめるようなことまで口にしたのです。友信はこの誘いを受けることにし、大きな杯に注がれた数杯の酒を飲み干しました。そして、正則が秀吉から拝領した名槍の「日本号」を褒美に欲しいと願い出たのです。これは正則にとって不覚でしたが、「武士に二言は無い」と日本号を差し出したといわれています。
このエピソードから、「呑取り日本号」という異名と、黒田武士の男意気を示す逸話として「黒田節」が広く知られるようになりました。
大坂城五人衆の一人:後藤基次(又兵衛)
4人目は後藤又兵衛の通称で知られる後藤基次です。基次は、講談や軍記物語で豪傑な英雄として描かれるなど人気のある人物です。後には豊臣秀頼にも仕え、「大坂城五人衆」の一人にも数えられています。
経歴と働き
基次の出自は諸説ありますが、永禄3年(1560)、播磨国神東郡山田村で後藤新左衛門の次男として生まれたとされています。
天正6年(1578)に官兵衛が有岡城に幽閉された際、伯父・藤岡九兵衛が黒田家家臣一同の誓紙への署名を拒否したため、彼の一族は追放されました。その後は仙石秀久に仕えましたが、仙石氏が戦いで大敗した後は栗山利安の与力となり、再び黒田家に仕えています。基次は朝鮮出兵、第二次晋州城攻防戦、関ヶ原の戦いなどで武功を挙げ、戦後は黒田家重臣として筑前六端城の一つである大隈城(益富城)の城主にもなりました。
ところが官兵衛が没した2年後、基次は一族で黒田家を出奔します。長政の「奉公構(ほうこうかまい、奉公を差し止め家禄[かろく]を取り上げられる刑罰)」により他の武家に仕えることができなかった彼は、慶長16年(1611)から京都で浪人生活を送るようになります。その後、大阪の陣が勃発すると豊臣方として参戦し、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で討ち死にしました。
残された逸話
基次にはさまざまな逸話が残されています。その中には長政との不仲エピソードも多いのですが、お互いを認め合っている様子がわかるのも面白いところです。
黒田家を出奔し京都にいたころ、長政の刺客二人が基次を狙っていました。二人は黒田家でも腕のたつ者でしたが、基次が彼らに気付き「遠慮なく討ちなされ」と言って悠然と通り過ぎると、あまりの威厳に二人はみじんも動けなかったといいます。暗殺が失敗したことを長政に告げると、「お前たちに又兵衛が討てると思ったのが間違いだった。死を覚悟して報告したことは立派だ」と、二人は100石ずつ加増されたそうです。長政は過去のさまざまな出来事から基次を恨んでいましたが、それでもその腕を認めていたのですね。
一方の基次も、長政と仲が悪かった細川忠興に招かれた際、黒田家を負かす方法を口にしながらも長政の武勇を称えました。これを聞いた忠興は、基次の長政に対する尊敬に感動したのだそうです。
家臣に恵まれた官兵衛
官兵衛には多くの有能な家臣がいました。彼らは武勇に優れているだけではなく、忠義にあつく人間味あふれる人物だったようです。だからこそ官兵衛も厚い信頼を置いていたのかもしれませんね。官兵衛は家臣たちを大事にし、一人も手討ちにしたり死罪を命じたりすることがありませんでした。裏切りや下克上が当然のように横行する戦国時代の中で、心をつかまれるエピソードですね。
大河ドラマ「軍師官兵衛」
放送日時:2019年10月14日(月)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kanbee/
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