【「青天を衝け」ファン必見!】渋沢史料館で、渋沢栄一から妻・千代への手紙が一挙公開中

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渋沢栄一と千代/渋沢史料館提供

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」も、いよいよ残り数回。熱い盛り上がりを見せるなか、第36回では妻・千代との辛い別れがあった。長年、苦楽をともにしてきた妻に先立たれた栄一の嘆きに、胸を打たれた方も多かったに違いない。そこで今回は、栄一と千代のつながりを示す企画展「渋沢栄一から妻 千代への手紙 ~あらあら めてたく かしく~」のご案内と、そのレポートをお伝えしたい。

渋沢栄一が「終の棲家」とした場所で思い出の手紙が公開

東京都北区、王子駅前にある飛鳥山公園。ここには渋沢栄一が、還暦を過ぎてから91歳で亡くなるまでの約30年間、暮らした邸宅があった。太平洋戦争における空襲で、本邸ほか多くの建物が焼失したが、その敷地内にあった洋風茶室「晩香廬」と、書庫「青淵文庫」は、焼失を免れて、当時のままの姿で残っている。
それらの建物や、本邸の跡地に佇むと、そこかしこに渋沢栄一の面影が宿っていることが強く感じられる。

渋沢栄一の邸宅跡に残る、洋風茶室「晩香廬」の外観(筆者撮影)

旧邸跡の一角に「渋沢史料館」がある。栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催。「渋沢栄一に会える場所」として好評を博している。現在、ここで行なわれているのが企画展「渋沢栄一から妻 千代への手紙 ~あらあら めてたく かしく~」だ。

「あらあら めてたく かしく」とは、栄一が千代に宛てた手紙の結びに添えた一文。栄一書簡の象徴的なものとして、企画展のサブタイトルに使われている。おもに女性の手紙の結びに用いられる語で、相手をほめ、恐れつつしむの意を表わす言葉といわれるが、渋沢のように男性が妻に対して使っているのが、面白く思える。史料館では「なぜ栄一が、この結びにしたのか、その意図は分かりません」と説明されている。

渋沢栄一書簡 渋沢千代宛 (部分) 慶応3年(1867)1 月9 日
横浜出港の2日前に栄一(篤太夫)が、千代に宛てた書簡。書簡本文の結びに「あらあら めてたく かしく」と記されている(写真中央付近)。/渋沢史料館提供

そのタイトル通り、渋沢栄一から千代にあてた手紙が史料館の1コーナーに集められ、約30 通も公開されている。いとこ同士で、幼なじみでもあった2人は、仲睦まじい夫婦であったと同時に、強い絆で結ばれていた。栄一は、人生の節目となる出来事や、日常の営みのなかで、さまざまな手紙を千代に出していた。その様子は大河ドラマでもたびたび描かれていたことが思い出されよう。

京都から血洗島の千代へ出した若き日の手紙

渋沢栄一書簡 渋沢千代宛 慶応2年(1866)8 月[日未詳]
京都から、故郷・血洗島で待つ千代へ宛てた手紙。/渋沢史料館提供

たとえば、この手紙。栄一が、従兄の喜作と初めて京都へのぼり、京都から千代へ出した手紙。栄一は一橋家に出仕し、さまざまな活動に従事。郷里に残された千代は、栄一の身を案じていたが、このように京都から届く栄一の手紙で、ようやく無事と活躍を知るのであった。第二次長州征討に従軍することになった栄一は、この手紙と一緒に自分の形見として贈った懐剣のことも記している。
当初、栄一は千代や、生まれたばかりの娘・歌子を上京させようとしていたが、情勢の変化によって取りやめたことが、この手紙からわかる。

渋沢栄一書簡 渋沢千代宛 慶応3年(1867)5 月15 日付
パリから千代に宛てた書簡。/渋沢史料館提供

フランス・パリからの手紙。この手紙では「ふらんすのはりすと申都ニ罷在候」と、無事にパリへ到着したことや、田辺太一と杉浦愛蔵に親切にしてもらっていることなどを知らせている。長期の留守と両親の世話を託し、体を大事にして、帰るまで辛抱してほしいと記している。当時、聞いたこともないような「フランス」という国から来た手紙を受け取った千代の心中は、いかばかりであったか。

「お前の父様は武士になられたので、この家にはいらっしゃらぬのだ。今はさる貴い方のお供で、フランスという大変遠い外国に行って居られるが、今にめでたくお帰りになれば、お前も父様のおそばへ行って武士の子になるのだ。それゆえ行儀も心がけもよくしなさいと、母さんの育て方が悪かったと叱られるよ」
千代は気丈にも、娘の歌子をこう言って励まし、また厳しくしつけていたという。

千代が「あさましい姿」と栄一へ書き送った、あの手紙も!

先の手紙とともに、栄一は髷(まげ)を切り、洋装した自分の写真を送っていた。千代は、変貌した栄一の姿に驚き、その感想を返事にしたためている。「あさましく見る目もつらい」という意味の文言を記し、元の姿に戻してほしいと懇願。これを受け取った栄一は、「西洋に住んでいるのだから、西洋人と同じ姿にするのは仕方がないこと」と、それに言い訳をする返事を書き送った。大河ドラマの一場面を思い起こさせる、あの千代からの手紙(現物を写した写真)も、会場では見ることができる。

渋沢栄一書簡 渋沢千代宛 明治10年(1877)2 月16 日
清国の上海に出張中の栄一が書き送ったもの。/渋沢史料館提供

帰国した栄一は、明治維新を経て、最初は政府に出仕するも下野。実業家として活動するようになる。千代は実業家の妻として、さまざまに尽くした。深川の邸宅や飛鳥山の別邸の建築にあたっては、千代の考えや趣味が反映されたという。
上の手紙は、西南戦争が起きた明治10年のもの。出張先の清国から千代へ出したものだ。これから長崎、大阪での用事を済ませ、それから帰宅する旨を伝えている。このときの出張で、慶応3 年のフランス行きのことを思い出したとも述べている。

いくつか紹介したように、栄一と千代が交わした手紙を見ていると、あの激動の時代を懸命に生きた2人と、それを取り巻く人々の情熱や息づかいまでもが伝わってくる。同時に「肉筆」が伝えるメッセージのあたたかさ、宛てた相手に対する優しさや気遣いが感じ取れる。

かほどに貴重な手紙の数々は、いかにして残されたのか。それは、千代が栄一から送られてきた手紙を一通一通「お手箱」に入れて保管していたからだ。ドラマでも描かれたように、千代はコレラに罹り、明治15年(1882)、41歳の若さで急逝してしまった。

両親がやりとりした手紙を受け継いだのは・・・

『はゝその落葉』 穂積歌子著 竜門社発行 明治33年
渋沢栄一長女の穂積歌子が母千代を偲んで綴った文章。亡き母を想う娘ならではのあたたかな筆致で千代の人となりを伝えている。/渋沢史料館提供

その手紙を受け継いだのは、娘の歌子だった。歌子は穂積家へ嫁いだあとも千代の遺品「お手箱」を大切に保管し、それが現在「穂積男爵家旧蔵」品として、渋沢史料館に伝来しているのである。それにちなんで、今回の企画展は歌子が母の思い出をつづった回想録『はゝその落葉』などを出展として、手紙が書かれた時代背景や、両親の思い出ばなしを歌子が語るといった趣向のパネル展示がされている。

今回は企画展の模様を紹介したが、渋沢史料館は豊富な資料が常設展示されていて、栄一の生涯を時系列で詳しく知ることができる。これを見るだけでも足を運ぶ価値は充分にある。

栄一が書庫などに使用した「青淵文庫」の内観(筆者撮影)

また、冒頭に書いたとおり、渋沢史料館が建つ飛鳥山公園には、栄一の旧宅の一部をなした洋風茶室「晩香廬」と、書庫「青淵文庫」という、大正時代から現存する建物が残っている。栄一が起居した本邸はすでに無いが、この2棟も栄一が愛用し、何度も出入りしていた建物だ。

1月以降の見学はホームページの開館案内を要確認!

2021年はコロナ禍の影響で「渋沢史料館」と、その付帯施設「晩香廬」と「青淵文庫」内部の見学は、完全予約制だった。すでに2021年12月まで予約で埋まっているが、渋沢史料館からのお知らせで「2022年1月以降の見学については、ホームページの開館案内をご確認ください」とのことだ。企画展は2022 年1 月30 日(日)終了予定となっているため、忘れずにチェックしよう。

また、渋沢史料館に隣接して建つ「渋沢×北区 青天を衝け 大河ドラマ館」は、閉館が2021年12月26日に迫っている。こちらも大河ドラマのファンは忘れずに観ておきたい。

(文・上永哲矢)

渋沢史料館 企画展「渋沢栄一から妻 千代への手紙 ~あらあら めてたく かしく~」
【開催概要】
主 催 公益財団法人渋沢栄一記念財団 渋沢史料館
会 期 2021 年9 月25 日(土)~2022 年1 月30 日(日)(予定)
会 場 渋沢史料館 企画展示室(東京都北区西ヶ原2-16-1 飛鳥山公園内)
https://www.shibusawa.or.jp/museum/
開館日、開館時間、休館日、入館方法等は、当館ウェブサイトでご確認ください。
入館料 一般 300 円 / 小中高生 100 円
*新型コロナウイルス感染症の影響により、予定が変更となる場合があります。

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