現代では争いごとは裁判で解決しますが、鎌倉時代にもこのような機関がありました。三善康信(みよしのやすのぶ)は、鎌倉幕府で裁判や行政を担った人物です。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小林隆さんが康信役を演じます。源頼朝から信頼され、最後まで鎌倉幕府に尽くした康信とは、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、康信のうまれから頼朝と親交を深めるまで、問注所の初代執事としての活躍、鎌倉幕府への尽力、康信にまつわる逸話などについてご紹介します。
うまれから源頼朝と親交を深めるまで
康信はどのように頼朝と出会ったのでしょうか?うまれから頼朝と親交を深めるまでについて振り返ります。
貴族:三善氏の家系に誕生
康信は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道(日本律令制の大学寮で算術を研究する学科)の家柄の出身です。三善氏は古代から学問の家として有名で、平安時代前期の公卿・漢学者だった三善清行は、文章博士、大学頭、参議宮内卿にまで栄進しました。以降の子孫は明法(法律を講究した学問)、算道を家職として繁栄したといいます。
源頼朝の挙兵に貢献する
康信は公家として太政官の史や中宮少属を務めていましたが、母が頼朝の乳母の妹だった縁から、伊豆に配流されていた頼朝に京の情勢を月に数回知らせていました。なお、頼朝の乳母は比企尼、寒河尼、山内尼らがいますが、どの乳母の妹かは判明していないようです。
治承4年(1180)5月、以仁王が平家追討の令旨を発して挙兵。これは失敗に終わったものの、全国の源氏が蜂起するきっかけとなります。『吾妻鏡』によれば、以仁王の挙兵の2ヶ月後、康信は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているため早く奥州へ逃げるように伝えたといいます。頼朝は同月に挙兵していますが、このような康信の働きが頼朝の挙兵に大きな役割を果たしたといえるでしょう。
問注所の初代執事としての活躍
その後、康信は問注所の初代執事として活躍しました。康信は鎌倉幕府でどのような役割を果たしたのでしょうか?
政務の補佐を依頼される
もともと康信は有能な役人として知られていたようです。平家追討で台頭した頼朝は、東国に支配体制の基盤を築くべく康信を鎌倉に呼び寄せます。康信は元暦元年(1184)年4月に鶴岡八幡宮の廻廊で頼朝と対面しました。そして、鎌倉に住んで武家の政務補佐をするよう依頼され承諾します。また、同年10月に公文所が新築されると大江広元が長官となり、康信は初代の幕府問注所執事(長官)として裁判事務の責任者に就任。こうして鎌倉幕府に仕えることになった康信は、裁判制度や行政機関の整備を進めていきました。
問注所とはどんな機関か?
現在では聞き慣れない問注所ですが、これは訴訟事務を管轄する機関のことです。問注とは「訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、またその内容を文書記録すること」を意味します。平安時代にも問注はありましたが、特定の場所は定められていませんでした。しかし鎌倉幕府では、専用の場所として初めて問注所を設置したのです。
当時の日本は治承・寿永の乱のさなかで、多くの訴訟事案が発生していました。そのため、これらの訴訟を迅速かつ円滑に処理する必要があったのです。これは鎌倉幕府が政権として認められるための重要な条件の1つでもありました。しかしこの問注所は、当初は訴訟に対する裁判事務は行わず、頼朝へ訴訟事案を進達することがおもな任務だったようです。
頼朝から厚く信頼された康信
もともと公家だった康信は、京の作法や儀式、芸能に詳しい人物でもありました。そのため、伊勢神宮に納める願文の草案作成などでも活躍。朝廷との関係においては、広元とともに頼朝の顧問役も果たしています。また建久7年(1196)には、備後・大田庄に地頭として送り込まれ、尾道の復興にも貢献しました。奥州合戦や頼朝の上洛時には鎌倉の留守を預かるなど、頼朝から厚く信頼されていたことがわかります。
鎌倉幕府への尽力
頼朝に重用され鎌倉幕府創業に貢献した康信。彼は頼朝の死後も鎌倉幕府に尽くしました。
「十三人の合議制」の1人に
建久10年(1199)に頼朝が亡くなると、嫡男・源頼家が第2代将軍に就任します。そのわずか3ヶ月後、有力御家人による「十三人の合議制」が敷かれ、この合議制に康信も名を連ねました。こうして康信は、頼朝の死後も幕府の重臣としての役割を果たしたのです。
合議制が敷かれた理由はまだ若かった頼家の独裁を防ぐためとされていますが、一方では、のちに執権として権威をふるう北条時政らの謀略ともいわれています。いずれにしても頼家は実質的な権力を失い、のちに幽閉され殺害されることになります。
承久の乱でも軍議に参加
承久3年(1221)6月、後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を発し、承久の乱が勃発します。康信は病気だったにもかかわらず軍議に参加し、広元の主張する即時出兵論を支持。この強硬策が功を奏し、幕府はこの戦いに勝利しました。さまざまな形で鎌倉幕府に尽くした康信ですが、承久の乱に勝利したのちに問注所執事を辞職します。そして、息子・三善康俊に職を譲り、同年8月にこの世を後にしました。
康信にまつわる逸話
康信はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話をご紹介します。
自宅が問注所になっていた!?
鎌倉幕府の問注所は、頼朝の邸宅内に設置されていました。しかし、連日の訴訟で怒号が飛び交い、騒々しさに頼朝がうんざりしたことから、建久3年(1192)には鎌倉名越にある康信の邸宅へと移転。康信邸に移ってからの問注所は、幕府の書庫の役目も果たしていたといいます。その後、建久10年/正治元年(1199)には、幕府郭外に新たな問注所が建設されました。頼朝と同じく自宅が問注所になった康信は、騒々しさに耐えうる人物だったのかもしれません。
子供は「御成敗式目」制定で活躍
康信の死後、問注所の執事は康信の流れに受け継がれました。康信の子・三善康連については、のちに「御成敗式目」の条文制定の中心人物にもなっています。御成敗式目は武家政権初の法令で、貞永元年(1232)に執権・北条泰時により先例や武家社会の慣習、道徳を基準に制定されたものです。康連がこの制定に関わることになったのは、法務に通じていた三善氏ならではといえるかもしれません。三善氏は室町幕府以降も問注所執事を世襲しました。
子孫が「問注所」を姓にした
三善氏は町野氏や太田氏などに枝分かれして鎌倉幕府の官僚として活躍しました。康信の子孫である康行は、正和2年(1313)に九州の筑後国生葉郡(現在の福岡県うきは市)へと下向。理由はわかっていませんが、そこに三善氏の所領があり直接統治をしたと考えられます。そしてこのとき、康行は役職を冠して「問注所康行」と名乗りました。中世では人を官職や住んでいた邸宅・地名などで呼ぶことも多かったため、不思議ではなかったのかもしれません。
鎌倉幕府に必須の存在だった
公家でありながら配流されていた頼朝と親交を持ち、のちに鎌倉幕府で重用された康信。彼は頼朝からの信頼を得て初代問注所執事になり、頼朝の死後も鎌倉幕府に尽くしました。大江広元とならんで朝廷との交渉にあたるなど、鎌倉幕府に必須の存在だったといえるでしょう。