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【千葉常胤】鎌倉幕府成立の立役者!千葉のまちの礎を築いた、千葉一族の名君

【千葉常胤】鎌倉幕府成立の立役者!千葉のまちの礎を築いた、千葉一族の名君

千葉常胤(つねたね)は、房総平氏の流れをくむ千葉氏の一人です。鎌倉幕府成立の際に大きく尽力し、現在の千葉県北部の礎を築いたとも言われています。今回は、千葉常胤が源頼朝挙兵から鎌倉幕府成立までどのように貢献したか、晩年の様子などをご紹介します。

保元の乱・平治の乱まで

まずは、常胤の生まれから平治の乱に参戦するまでをみていきましょう。

房総平氏・千葉常重の長男として誕生

千葉県千葉市中央区にある亥鼻城址

常胤は、元永元年(1118)に下総の行政官だった千葉常重の長男として誕生しました。桓武天皇を祖とする桓武平氏の流れをくむ千葉一族の出身で、父・常重は下総国相馬郡、千葉郡、立花郷などを治めていました。房総半島を治める房総平氏は常重の代に千葉氏と上総氏に分かれ、特に上総氏は房総平氏一門を束ねる惣領としての位置にありました。

常胤は8歳のころ、父・常重が本拠地を上総国大椎(現在の千葉県千葉市緑区大椎町)から下総国(現在の千葉県千葉市中央区)へ移すのに伴って、下総国へ転居します。このとき常重が築いた城は亥鼻城(通称千葉城)と呼ばれ、康正元年(1455)に千葉胤直が下総原氏の原胤房に追われるまで、千葉氏13代(約330年)にわたる拠点となりました。

房総平氏とは

房総平氏は桓武平氏の流れをくんではいるものの、平清盛らの伊勢平氏とは祖が異なります。この房総平氏もやがて勢力は3つに分かれました。平清盛を中心とする平家に与する勢力はその後の源頼朝挙兵の際に討ち取られているのですが、勢力規模が最大だった上総氏や、常胤を中心とする千葉氏の勢力は源氏に加勢し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。

相馬郡の奪い合い

常胤が家督を相続したのは長承4年(1135)、16歳のときで、父・常重が成立させて伊勢神宮に寄進した相馬御厨(そうまみくりや)の経営を引き継ぎました。しかし、下総守であった藤原親通が相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されていないという理由で常重を逮捕・監禁したり、源義朝(頼朝の父)が介入してきたりしたため、相馬郡は一度奪われてしまいます。

その後、常胤の尽力で久安2年(1146)には相馬郡を取り戻し、相馬郡司職がその後も常胤の子孫に相伝されることを伊勢神宮に認めさせます。残念ながら、常胤は義朝との間でどのように相馬郡の問題を解決させたかは不明ですが、保元元年(1156)の保元の乱で上総氏(上総広常)とともに義朝に加勢しています。このとき、義朝に従うことで、相馬郡の支配権を維持しようとしたとする見方もあります。

常胤が41歳になった平治元年(1160年)に起こった平治の乱で義朝が清盛に敗れると、佐竹義宗によって相馬御厨は再び奪われてしまいます。これはとっくに無効化していたはずの親通による証文を利用したもので、常胤も抵抗するものの、伊勢神宮は義宗の寄進を認めてしまったのです。

頼朝への加勢と鎌倉幕府の成立

平氏の時代を経て、頼朝の挙兵に加勢し、鎌倉幕府が成立するまでを解説します。

頼朝への加勢

源頼朝の肖像です。

治承4年(1180)8月、伊豆国で挙兵した頼朝は伊豆を制圧したものの、真鶴(神奈川県足柄下郡)付近で起こった石橋山の戦いで、大庭景親・伊東祐親らに敗北。8月末には船で安房国(現在の千葉県南部)へ逃れると、常胤と広常に加勢を要請しました。

常胤はこの要請を受け入れるとともに、9月13日に安房国を出た頼朝とは行動を別にしながらも、息子である千葉胤頼の勧めに従い、政権を握る平家に近いとされていた下総の目代を襲撃、即座に討ち取っています。さらに、9月14日にはその知らせを受けて戻ってきた親通の孫である藤原親政を、常胤の孫である成胤が捕縛しました。

鎌倉拠点を頼朝に進言

鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180)9月17日に常胤は一族300騎を率いて頼朝に加勢し、頼朝に対して鎌倉に拠点を構えることを進言したと記載されています。その後、平家の勢力の目をかい潜って武蔵国に入る際にも、常胤をはじめとする千葉氏、上総氏に加え、対岸の豊島氏が尽力したそうです。

このとき、平治の乱で義朝の身代わりとなって討死した陸奥七郎義隆(源義朝の大叔父)の忘れ形見である源頼隆も同時に参戦しています。頼隆は父の戦死後、常胤のもとに配流されていましたが、常胤は頼隆を源氏の子として育てていました。頼隆と対面した頼朝は常胤に深く感謝し、以降常胤を義父のように慕うこととなります。

鎌倉での地盤固め、都市計画

富士川の戦いの舞台となった富士川

治承4年(1180)10月6日に鎌倉に入った頼朝は、甲斐国(現在の山梨県)の甲斐源氏、信濃国(現在の長野県)の源義仲を引き連れ、同年10月20日に起こった富士川の戦いに勝利します。平家方は脱走や兵糧の欠乏などで戦う前から戦意喪失が著しかったとされ、特に大規模な戦闘は無かったと伝えられています。

頼朝はそのまま平家を追って上洛しようとしましたが、常胤は広常・三浦義澄とともに「今は東国の守りを固めるべきだ」といさめたとされています。なお、常胤と広常はこの後に起こった金砂城の戦い(佐竹合戦)で佐竹氏を打ち破り、相馬郡を房総平氏の手に取り戻すことに成功しました。

常胤は、頼朝に鎌倉を拠点にすることを勧めただけでなく、鎌倉の都市計画についても進言した可能性があります。これは、常胤のころの千葉の推定図と頼朝のころの鎌倉の推定図を比較した際に、どちらも北端に信仰の中心となる寺社を設け、そこから南北に延びる大路をつくり、これを軸として街をつくるという構成になっていたためです。

鎌倉幕府成立前後、晩年の千葉常胤

寿永2年(1183)、頼朝に疎まれた広常が誅殺されたことにより、房総平氏の惣領の地位は常胤に移りました。常胤は、その後も元暦元年(1184)に起こった一ノ谷の戦いに参戦したり、豊後(現在の大分県)に渡ってさらに軍功を上げたりと、多くの戦に参戦。69歳を迎えた文治3年(1187)には治安維持のため京都に向かい、71歳になった文治5年(1189)には東海道大将軍として奥州合戦に参加しています。老いてもなお戦場を駆けるすさまじい気力・体力があったことがわかります。さらに、頼朝の幕府運営に対しても率直な意見を述べて頼朝がこれを受け入れたり、頼朝が上洛のため鎌倉を発った際には、常胤が後陣を務めたりするなど、誠実で実直な人柄がうかがえます。

また、鎌倉幕府成立後には、鎌倉殿(頼朝)と主従関係を結んだ御家人のひとりとして重用されました。翌年には香取社(香取神宮の社殿)造雑掌を務め、千葉氏が香取社の地頭として権力を持つきっかけにもなっています。様々な方面で活躍した常胤でしたが、建仁元年(1201)に82歳で亡くなりました。

鎌倉幕府の御家人に上り詰めた、千葉氏中興の祖

常胤は、父の事業を受け継いで奪われた権利を取り戻したり、その過程で義朝と絶妙な勢力関係を築いていたりと、武士でありながら政治的な手腕も発揮しています。後年は頼朝に加勢して鎌倉幕府成立に大きく貢献するとともに、頼朝に対しても忌憚(きたん)のない意見を述べて絶大な信頼を寄せられるなど、実直な人物だったこともうかがえます。千葉氏中興の祖になれたのも、このずば抜けた政治力と実直さによるものなのかもしれませんね。

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