日本三大怨霊のひとりとされている平将門。現代でも首塚の呪いはじめとしたエピソードはよく知られています。今回は、将門の生い立ちや乱の概略、日本三大怨霊のひとりと呼ばれるに至った逸話などについてご紹介します。
上洛したはいいものの……
まずは、将門の生まれから、上洛するまでをみてみましょう。
桓武天皇の血を引く高貴な生まれ
将門は、延喜3年(903)(生年不詳という説もあり)に下総国佐倉(現在の千葉県北部)を治める平良将の子として生まれました。将門の祖父は桓武天皇の孫にあたる「高望王(たかもちおう)」。高望王は臣籍に入る際、「平」の苗字を得て上総国(現在の千葉県中部)の国司となっており、高貴な家系の人物だったといえます。
15歳で上洛。しかし、父の早世で帰郷
15歳で上洛し、藤原北家・藤原忠平(ただひら)の従者となります。将門は京内外の犯罪を取り締まる検非違使(けびいし)を志願するも叶わず、官位が低い滝口の武士という役職に留まっていました。この裏には、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方政治は国司が横暴してやりたい放題だったため、要職に就けない貴族は官位の低い武士になるしかなかったというものがあります。しかも、父・良将が早世したため、早々に夢を諦めて実家に帰ることになってしまいます。
親族との争いから平将門の乱まで
夢を諦めて故郷へと帰ってきた将門でしたが、親族争いに巻き込まれてしまいます。これが、のちの平将門の乱につながっていくのでした。
親族を次々と殺害
平将門の乱につながる親族争いには諸説あり、土地をめぐる対立、縁談をめぐる対立があったとされています。ただし、いずれも詳細は不明のため、ここではよく語られる一説をご紹介します。
将門が実家に帰ると、父・良将の所領であった下総国佐倉が、叔父である平良正・平良兼・平国香に横領されていることが発覚しました。さらには、将門が妻にと望んだ源護(みなもとのまもる)の3人の娘がそれぞれこの叔父たちに嫁いでしまったことで、将門は憤慨。このとき、将門が妻とした女性に源護の3人の息子が横恋慕したことも火に油を注いだとされています。
承平5年(935)、ついに将門は護の3人の息子と、叔父の国香を殺害。当然、護や良正、良兼は激怒し、護が良正に泣きついたり、良正・良兼・貞盛(国香の子)と連合軍を作ったりしたものの、将門に大敗してしまいます。護は朝廷に将門の非を訴え、将門も一時は捕らえられたものの、承平7年(937)4月に朱雀天皇が即位する際、恩赦(犯罪者の罪を全免する)を受けて自由の身になりました。
同年8月には良兼から追撃がありましたが、逆に将門はかつての主人である忠平に良兼・貞盛の暴状を訴え、朝廷は良兼・貞盛の捕縛命令を下します。その後、良兼は病死しましたが、貞盛の行方は今でもわかっていません。
民衆をかばって起こした平将門の乱
天慶2年(939)11月、藤原玄明(はるあき)が税金の不払い問題などで常陸国司と対立。将門に助けを求め、将門はこれに応じて常陸国司が訪れても断固として引き渡しませんでした。これが平将門の乱の始まりです。
玄明を助けたのは、玄明が強い意思をもって国司の重税や重圧に負けず、朝廷が管理する蔵を襲ってまで米を民衆に分け与えていたという人物だったためとされています。朝廷の要職を藤原氏が独占し、地方政治は国司のやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役に苦しみ続けている状況に将門も憤慨していたのかもしれません。
将門は1000人を率いて、常陸国府軍3000人に大勝します。そして、常陸国府を焼き払い「印綬」(いんじゅ)という朝廷が国司に与えた証明書を略奪。これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったこと、同時に将門が完全に朝敵となってしまったことを意味しました。
「新皇」を名乗るも、朝廷に追われ矢で討死
将門はさらに勢いを増し、国司から次々と印綬を奪って追放。上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東7か国を占領し、朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付け、自ら「新皇」と名乗りました。
将門の謀反はすぐに京に知らされ、朝廷は大激怒。呪い殺すための祈とうは全く効果がなく、結局「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」と、全国に通達を出します。最後は平貞盛と藤原秀郷の連合軍によって額に矢を射られ、将門は討死しました。
日本三大怨霊のひとりに
将門は、死後のエピソードから崇徳天皇(すとくてんのう)、菅原道真(すがわらのみちざね)と並び、日本三大怨霊のひとりに数えられています。
夜な夜な喋る、腐らない生首
戦いに敗れたのち、身体はすぐに埋葬されたものの、首級は平安京に運ばれて都大路の七条河原にさらされました。何か月経とうと腐らず、目を見開いて夜な夜な「斬られた私の胴体はどこにある、持って来い、首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けていたとか。3日目に首級は、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、故郷の東国に向かって飛んでいきました。しかし途中で落下し、落ちた場所に首塚が建てられた(現在の東京都千代田区大手町)とされています。
首塚の近くにあった神田明神
14世紀初頭、将門の祟りといわれた疫病が流行。首塚の近くにあった神田明神が将門の霊を供養したところ、疫病が沈静化したことで延慶2年(1309)に将門を祀るようになりました。ただし、明治7年(1874)に明治天皇が訪れる際、「天皇が参拝する神社に朝敵となった将門が祀られているのはあるまじきこと」として、現在では祭神から外され、境内社へ祀られています。
呪いはまだまだ続いている!?
関東大震災で全焼した大蔵省庁舎を再建する際、首塚を壊して仮庁舎を建設したところ、大蔵大臣をはじめ関係者14人が死亡、さらに怪我人・病人も続出、仮校舎を取り壊す騒ぎになりました。
戦後に米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が死亡、高度経済成長期に首塚の一部が売却されて日本長期信用銀行が建つと、首塚に面した工員が次々に病気に――などなど、近現代でも祟りは続いていると考えられるエピソードが多々あります。
このため、隣接するビルは首塚に尻を向けないレイアウトに、見下ろさないよう窓を作らないなど細かな配慮がなされているといわれています。
成田山新勝寺が建てられたのは、平将門の乱鎮圧のため
平将門の乱を恐れた朱雀天皇は、宇多天皇の孫である寛朝大僧正に勅命を与え、弘法大師(空海)が自ら彫刻して魂を入れた「不動明王像」を持参して関東に向かわせました。成田の地で御護摩祈祷を行ったところ、21日目である祈願最後の日に将門の乱が終息。寛朝大僧正が京へ帰ろうとしたところ、不動明王像が石のように動かなくなり、この地に留まるよう告げたことから成田山新勝寺開山となりました。
現代にまで続く強い執念は、平将門の正義感?
将門の呪いは現在にまで続くとされていますが、平将門の乱は朝廷の腐敗、国司の横暴などに憤慨した将門が立ち上がった結果だったと言えます。父の所領を横領した叔父や、妻に横恋慕した親戚を殺してしまったという説が生まれるほどの気性の荒さはあったのかもしれませんが、その根底には強い正義感があふれていたのではないでしょうか。