武田信義は鎌倉時代に活躍した武将で、のちに武田信玄を輩出する甲斐武田氏の祖となる人物です。今回は、生い立ちから治承・寿永の乱での活躍、源頼朝との関係、信玄・勝頼とのつながりについてご紹介します。
生い立ちから元服まで
まずは、信義の生い立ちから元服までをご紹介します。
甲斐源氏の血を引く次男として生まれる
信義は、大治3年(1128)8月15日、甲斐源氏・源清光の次男として生まれました。甲斐源氏は信義の曾祖父・源義光(新羅三郎義光)を祖とする一族で、清和天皇の血脈に連なる清和源氏のうち、河内国(現在の大阪府)に拠点を置いた一門にあたります。
甲斐源氏という呼称は後世のもので、治承・寿永の乱と同時期の史料中には存在しません。このときの甲斐源氏一族を指す呼称は「武田党」などで、続く鎌倉時代ごろから徐々に「甲斐源氏」の呼称が使われ始めます。のちに逸見氏の祖となる信義の兄・逸見光長は双子とする説が一般的ですが、異母兄弟とする説もあり、双子説では光長は巳刻(午前10時ごろ)、信義は午刻(正午ごろ)に生まれたとされています。
元服し、甲斐武田氏の祖に
信義の幼名は龍光丸・勝千代で、保延6年(1140)13歳のとき武田八幡宮で元服。武田太郎信義と名を改めたことで、のちに信義は甲斐武田氏の祖となりました。以降、武田八幡宮は甲斐武田氏の氏神となります。ちなみに、武田氏を最初に名乗り始めたのは義光の息子・源義清からで、常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を領有した際の地名から由来していると伝えられています。そして、義清の息子・清光が流罪で甲斐に渡り、武田氏と甲斐国の接点ができたといわれています。
治承・寿永の乱での活躍
信義が治承・寿永の乱でどのように活躍したかご紹介します。
以仁王の令旨を受け挙兵
治承4年(1180)、栄華を誇っていた平家に対し、打倒平家として以仁王は源頼政とともに、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促しました。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝がこれに応えて挙兵したのは有名ですが、このとき信義率いる甲斐源氏一派も挙兵しています。
8月下旬には挙兵し、頼朝が大庭景親らに敗北した石橋山の戦いの直後には、甲斐源氏一派のひとりである安田義定らが波志田山合戦にて、景親の弟である俣野景久を破りました。
石橋山の戦いで景親に敗れた頼朝方の武将の中には、甲斐の地に逃げ込んでその後、甲斐源氏一派と共に戦った者もいました。さらに9月には信濃国伊那郡へ出兵し、諏訪社との連携を果たしたのち、鉢田の戦いで平家に味方する現地勢力を一掃し、平家本軍が到着する前に駿河を占拠するという手腕を見せます。
富士川の戦い
治承4年(1180)10月、富士川の東岸に着陣すると、後方の黄瀬川近辺に陣を敷いていた頼朝と連携して平維盛を破りました(富士川の戦い)。この時、兵糧の不足によって平家方の士気は大きく低下していて、そもそも劣勢だった兵数も脱走者が多く半数程度に減ってしまったようです。このため、富士川の戦いでは大規模な戦闘はなく、ほとんど平家方が撤退しただけとされています。
ちなみに、富士川の戦いで平家が敗退した理由として、信義の部隊が背後を突こうと富士川の浅瀬に馬を乗り入れた際、水鳥が反応して大群が一斉に飛び立ち、その音を一軍が押し寄せたと勘違いした平家方が大混乱に陥り、総崩れになった、という説もあります。この説の真偽はわかりませんが、そんな理由が囁かれてしまうほど、当時の平家軍は弱体化していたと考えられそうです。
東国の武家棟梁のひとりに
富士川の戦い以降、しばらく東国では頼朝・信義・源義仲(木曽義仲)の三人が武家の棟梁として並列に扱われる時期が続きました。そんな中、甲斐源氏の中に分裂が生じます。弟である加賀美遠光とその次男である小笠原長清、信義の子である石和信光は頼朝に接近。義定は平家を打ち破って都へ進撃する義仲とともに東海道から都へ上洛、その功績で遠江守の官位を得ました。
やがて頼朝と義仲が対立すると、信義をはじめとする甲斐源氏一派は頼朝と協調する選択をとります。武田軍はその後も源範頼・源義経らとともに義仲を追討、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いにも参加し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。
頼朝との対立から晩年
しかし、同格の武家の棟梁は排除するか屈服させるスタンスだった頼朝にとって、数々の武勲を立てる甲斐源氏はいつしか障害となっていました。養和元年(1181)には後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという噂まで流れ、頼朝は信義に「子々孫々まで謀反は起こさない」という旨の起請文を書かせました。
にもかかわらず、3年後の元暦元年(1184)6月には嫡男である一条忠頼に謀反の疑いがかかり、謀殺されてしまいます。こうして、甲斐源氏は鎌倉政権の御家人という立場へ転じていきました。
「吾妻鏡」によれば文治2年(1186)に57歳(58歳とする説もあり)で病没したとされていますが、建久元年(1190)の頼朝上洛時の兵の中や、建久5年(1194)の東大寺造営に名前があることなどから、文治2年(1186)以降も存命だったとする説もあります。
武田信玄・勝頼は遠い子孫!
信義は甲斐武田氏の初代当主であり、のちに戦国大名として騎馬軍団を率いて歴史に名を残した武田信玄は19代当主にあたります。しかし、信玄の息子である武田勝頼の代で、400年続いた甲斐武田氏は滅んでしまいました。
武勲を立てすぎて源頼朝に目をつけられてしまった、甲斐武田氏の祖
遠い子孫に戦上手の信玄がいるとおり、信義は以仁王の挙兵においても、その後の源平合戦においても数々の武勲を残し、鎌倉幕府成立のために大きな功績を残しました。しかし、皮肉なことに武勲を立てすぎて頼朝に脅威とみなされ、協調路線を取っていたにもかかわらず不当な弾圧を受けてしまいます。鎌倉幕府の立役者ながら晩年は不遇な扱いを受けましたが、子孫である信玄は甲斐を中心に一大勢力を誇る戦国武将となりました。