歴人マガジン

秀吉大のお気に入り!有馬温泉「武将と湯けむりぶらり旅」

秀吉の来湯記録なんと9回!黒田官兵衛や利休も訪れた古の名湯

江戸時代には温泉番付というものがあった。東の大関・草津温泉に対し、西の大関に格付けされたのが有馬温泉だ。当時まだ横綱は無かったから、名実ともに「最高の温泉」と認められていたのだろう。『日本書紀』にも記されているように「日本最古」の呼び声も高く、昔から関西人の心のよりどころでもあった。

神戸から車で約20分。六甲の自然に囲まれた山あいに位置する温泉街は、細い道が入り組んでいる。この有馬には藤原道長、足利義満、後白河法皇、谷崎潤一郎といった歴史上に名だたる人物が入湯した記録があるが、その中でも豊臣秀吉はひときわ、有馬温泉を愛したようだ。

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温泉街入口にある「太閤橋」のたもとには豊臣秀吉の銅像が、有間川にかかる赤い橋(ねね橋)には、妻・ねねの銅像が建つ。夫婦そろって旅行客・湯治客を歓迎してくれる。

秀吉が有馬温泉を訪れたことは、はっきり記録にある。天正11年(1583)8月に始まり、文禄3年(1594)12月までの12年間で9回にのぼる。初回の天正11年(1583)8月といえば、「本能寺の変」後に対立した柴田勝家を「賤ヶ岳の戦い」で破り、北ノ庄に攻め滅ぼしてから4ヵ月後。大坂城を建て始め、天下平定に乗り出すころだ。

以来、ほぼ年に1回は来ていたことになるが、あくまで記録上のもので、非公式も含めるともっと多かったかもしれない。むろん一人で来たわけではなく、供も連れて来た。妻ねねと一緒に来たのが3回。茶人の千利休や津田宗及を伴い、ここで盛大な茶会を催してもいる。

黒田官兵衛も、実は有馬を訪れている。天正6年(1578)、荒木村重の手で有岡城へ幽閉されていた官兵衛は、一年後に部下たちによって救出される。しかし、過酷な幽閉生活によって衰弱していたため有馬温泉で湯治をし、秀吉のもとへ復帰したという。

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秀吉は専用の湯殿を造って利用していたが、その後は長い歴史の中で地下に埋もれ、所在不明になっていた。しかし、1995年1月の阪神淡路大震災のとき、温泉街の古刹「極楽寺」の庫裏(くり)が壊れ、その下から「湯殿御殿」(ゆどのごてん)の跡が発見された。

その構造は蒸し風呂で、温泉の蒸気を充満させた狭い部屋に入って汗をかき、その汗や垢をかけ湯で流してサッパリするという、サウナに似たものだ。今のように湯舟に湯をためて浸かる「湯浴み」が一般的になったのは江戸時代からとされる。ただ岩風呂の遺構も出土しているから、秀吉は湯浴みも行なったかもしれない。

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秀吉は自分の湯殿だけではなく、有馬温泉の人々に対しても資金援助を行っていた。1596年の慶長伏見大地震で有馬温泉も壊滅的な被害を受けたが、その復興に力を貸し今の隆盛につなげている。

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有馬といえば、金泉という褐色の湯。鉄分が空気に触れると酸化してこのように独特の色になる。タオルを入れると変色してしまうほどだ。黄金の茶室を造るなど、派手好みだった秀吉が愛したのも納得がいく。肌触りはやわらかく、とても温まって湯冷めしにくい金泉は今も豊富に湧き続け、人々を喜ばせている。

(文・写真/上永哲矢【哲舟】)

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