信長・秀吉の家臣たちが続々来訪 武将らに入湯ブームを起こした東の名湯
西の名湯が有馬温泉なら、東の名湯といえば群馬県の草津温泉だ。大勢の宿泊客・立ち寄り客でにぎわう温泉街の中心、湯畑(ゆばたけ)の周りには「草津に歩みし百人」と題した、歴史上の偉人や武将たちの名前がずらりと並んでいる。
古くは、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、源頼朝、木曽義仲に始まり、江戸時代には小林一茶、佐久間象山、清河八郎。明治から昭和の頃には志賀直哉、若山牧水、与謝野晶子、石原裕次郎、渥美清など文人や映画俳優など・・・日本を代表するような著名人ばかりだ。
戦国時代、草津周辺は武田信玄の支配下に入った。温泉好きといわれる信玄だが、残念ながら彼自身が草津を訪れた記録はない。ただ、文禄10年(1567)に草津で甲州兵が里人に狼藉を働いたので入湯禁止令を出している。草津がすでに湯治場として名高かったことが分かる。
やがて、戦国時代も終わりに近づくと『草津入湯ブーム』が到来したかのように多くの戦国武将が湯治に訪れる。「天目山の戦い」(1582年)で武田家を滅ぼした織田信長の家臣、丹羽長秀(にわ ながひで)が、堀秀政(ひでまさ)たちとともに草津を訪れて戦の労を癒したそうだ。
豊臣秀吉に仕えた大谷吉継(おおたに よしつぐ)も、文禄3年(1594)に草津を訪れている。「関ヶ原の戦い」(1600年)で散った名将として知られるが、彼はハンセン病患者で、とくに眼を患っていた。
この時期、直江兼続(なおえ かねつぐ)に宛てた書状に「眼相わずらい候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」と書いている。治療の甲斐なく晩年は皮膚がただれ、目も見えなくなったそうだが、草津の湯が万病に効くことを聞いて湯治に訪れたのだろう。
その翌年(1595)、豊臣秀吉が草津へ行くための触れを出した。道中の宿泊先や供の人数なども決まっていたが残念なことに直前で中止された。理由は不明だが政務多忙のためか。秀吉は西の名湯・有馬には何度も入湯しているが、東の草津に行けなかったのは心残りだったであろう。
その代わりというべきか、秀吉の重臣・前田利家が慶長3年(1598)の4月から5月にかけ、一族を引き連れての大がかりな湯治を行なった。前田利家といえば加賀百万石の礎を築いた有力な大名。その一行には謡曲師や楽師も含まれる盛大なものだった。利家の湯治中、家康や浅野長政、堀秀治などが衣服や布団などの見舞品を送った記録もある。
江戸時代には徳川将軍家の「御汲上の湯」として使われた。初代・徳川家康、8代・吉宗、10代・家治が、多忙で草津に行くことができないため、逆に湯を江戸まで運ばせて入浴したようだ。湯畑の中には、吉宗の時代に汲み上げに使われた木枠が現在も残っている。
江戸時代の記録によれば、浴場を訪れた武士は刀を温泉入口の番所に預け、丸腰になった。草津の湯は強酸性のため、その蒸気で刀が錆びてしまうからだ。標高1200mの高地にあり、争乱とは隔絶されたような世界であった温泉地・草津。戦乱の世に生きた武将たちにとって、かけがえのない癒しの場であったのだろう。
(文・写真/上永哲矢【哲舟】 歴史コラムニスト)
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