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【 未熟な秀頼、老獪な家康 】原因は豊臣側の○○?大坂の陣に至ったきっかけ

【 未熟な秀頼、老獪な家康 】原因は豊臣側の○○?大坂の陣に至ったきっかけ

大坂の陣は、ご存知の通り江戸幕府軍によって豊臣家が滅ぼされるという結果に終わりました。決着がついたのは夏の陣の話で、その前に冬の陣が起きています。そもそもなぜ大坂の陣、つまり冬の陣は起こったのでしょうか。そこに至った経緯やきっかけを、わかりやすくご説明しましょう。

老いる徳川家康、その権謀術数

関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が惨敗した結果、家康の権力はさらに絶大なものとなりました。そして慶長8(1603)年、家康はついに征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたのです。その一方で、豊臣家は65万石の一大名となってしまいました。

征夷大将軍となった家康と、豊臣秀頼

征夷大将軍となった家康と、豊臣秀頼

将軍職を秀忠に譲った家康は、徳川が代々将軍家となっていくという姿勢を見せつけます。
一方で、孫の千姫を秀頼に嫁がせ、懐柔的な立場も見せました。しかし同時に、秀頼に対し会見を求め、暗に臣下の礼を取るように圧力もかけています。この時は淀殿の拒否があって成立しませんでしたが、徐々に両家の間には溝が生まれていきました。

その後、慶長16(1611)年の後水尾天皇の即位に伴い家康は上洛します。この時に、加藤清正や浅野長政らの仲介によって二条城で秀頼との会見が実現しました。しかし家康はこの裏側で諸大名たちに、幕府の命に背かないという誓詞を要求していたのです。この会見の直後に加藤・浅野らが次々と死去し、秀頼はいつの間にか孤立勢力となっていってしまいました。

老境の家康には、立派な青年に成長した秀頼は脅威に映ったのかもしれません。
一大名にしたとはいえ、豊臣恩顧の大名もまだいましたし、大坂城が秀頼の手中にあるのも家康にとっては悩みの種だったのでしょう。

豊臣家と秀頼に足りない老獪さ

豊臣家からすれば、いっこうに政権を返そうとはせず、あまつさえ将軍職を息子に譲った家康への不信感は増大するばかりでした。また、朝廷から官位を受けたことを徳川方から咎められましたが、これも秀頼からすれば、江戸幕府の支配下でない豊臣家ならば問題ないだろうという考えだったようです。

そして、あの方広寺鐘銘事件が起きたのでした。
慶長19(1614)年、豊臣家は京都の方広寺大仏殿を再建しました。それに当たって梵鐘に鐘銘を刻んだのですが、ここで問題が勃発したのです。
「国家安康」「君臣豊楽」という部分が、家康の名を分断し、豊臣を君として楽しく暮らそうという意味に取れると徳川方から批判されたのでした。

「方広寺に残る鐘銘」

「方広寺に残る鐘銘」

もっとも、この鐘銘に関しては、京都五山の寺なども家康の諱を分断するのは不謹慎だという見方を示したとされており、家康がいちゃもんをつけたとはあながち言えないようですね。だとすれば、豊臣方(ひいては秀頼)の配慮が及ばなかったとも考えられます。

大坂冬の陣勃発のきっかけは、片桐且元!?

家康の怒りように慌てた豊臣方は、家老の片桐且元を駿府に派遣します。しかし家康は彼に面会しようとはしませんでした。ところが、後からきた淀殿の乳母・大蔵卿局にはにこやかに面会したのです。この態度の違いと、家康による「淀殿が江戸へ人質となるか、秀頼が駿府と江戸へ参勤するか、秀頼が国替えするか」という案を且元が持ち帰ったことに淀殿は逆上します。そして且元を裏切り者扱いするようになってしまいました。

 「図らずも豊臣家を裏切ることになった片桐且元。賤ヶ岳の七本槍のひとりです」

「図らずも豊臣家を裏切ることになった片桐且元。賤ヶ岳の七本槍のひとりです」

且元はついに豊臣家と大坂城を去る決意をします。
なんとこれが家康に出兵の口実を与えたんですね。
且元の屋敷は豊臣方に壊され、且元は幕府の京都所司代・板倉勝重に援軍を要請します。そのため、家康は且元を助けるという理由で冬の陣の口火を切ったと言われています。

こう見ていくと、秀頼の主体的な姿勢があまり見えてきませんよね。
環境がそうさせたのかもしれませんが、家康の人生経験がすべてにおいて勝っていたとしか言いようがありません。

(xiao)

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