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【 大坂五人衆のキリシタン武将 】 最期は行方知れず…江戸幕府も恐れた謎多き男・明石全登

大河ドラマ「真田丸」が大坂の陣に突入ということで、これまで幸村以外の五人衆を紹介してきました。(後藤又兵衛毛利勝永長宗我部盛親)最後はこの人、明石全登です。「真田丸」では九度山にいた真田信繁を迎えに来ていましたね。その急な現れ方も不思議でしたが、この方、本当に謎多き人物なのです。何しろ、その最後すらわかっていないのですから・・・。

まず、名前はなんて読むの?

「名前にまで謎が多い男・明石全登」

「名前にまで謎が多い男・明石全登」

明石全登は、景盛とも守重とも伝わっています。しかし最もポピュラーなのは全登のようですね。しかしこの諱の読み方も問題で、「ぜんとう・たけのり・てるずみ・なりとよ・いえのり」などたくさんの読み方が伝わっているんです。この中で一般的なのは「ぜんとう」か「てるずみ」で、「真田丸」では「てるずみ」と名乗っています。
ちなみに彼はキリシタン大名でもあり、洗礼名はジョアン(他、多数あるらしい)と伝わっています。

備前保木城主・明石行雄の子として生まれた全登は、宇喜多直家・秀家に仕えました。慶長4(1599)年に起きたお家騒動の後には、家宰として宇喜多家の取り仕切りを任されるまでになっています。

容姿端麗だったと伝わる宇喜多秀家

容姿端麗だったと伝わる宇喜多秀家

関ヶ原の戦いでは主君・秀家に従い西軍に属します。伏見城の戦いや杭瀬川の戦いで勝利をおさめる武功を挙げ、本戦では宇喜多軍の先鋒を務めました。
全登は善戦しましたが、小早川秀秋の裏切りをきっかけに崩れ、結果として敗戦の将となってしまいます。この時、秀家に退却をすすめ、自ら殿を買って出たのでした。
結局、秀家は捕まり八丈島へ流罪となりますが、全登は秀家と連絡が取れないまま岡山城へ戻りました。しかしそこも荒らされていることを知り、そのまま浪人となったのです。

大坂の陣で大活躍!

浪人となった全登を庇護したのは、同じくキリシタン大名であり縁戚だったという黒田如水だったと言われています。しかしその息子・長政がキリスト教を禁じるようになり、全登はここを出て、キリスト教を保護した柳川藩の田中忠政を頼ったとされています。

全登が歴史上に再び現れるのは、慶長19(1614)年に大坂の陣が勃発した時のことです。
彼は突如として数千のキリシタン兵を率いて参戦したと伝わっていますが、これが本当ならめちゃくちゃカッコいいですね。キリスト教禁止の方向に動いていた徳川方に付くという選択肢はなかったのです。

冬の陣では目立った活躍はありませんでしたが、夏の陣での全登の存在感はずば抜けています。
道明寺の戦いで後藤又兵衛を失いながらも、伊達政宗などと交戦し、混戦に乗じて相手の同士討ちを引き起こすなど損害を与えました。
そして、天王寺・岡山の戦いでは300名の決死隊を率い、真田信繁らと協力して徳川家康の本陣を狙いました。全登は敵の背後に回り込み突撃するはずでしたが、真田隊などが破れたため、やむなく敵の包囲網を突破して退却することになります。

生存?死亡?謎に満ちた行方

全登の生死は定かではなく、戦死したとも落ち延びたとも様々な説があります。生存説のなかには、彼がキリシタンであったことから南蛮逃亡説まであるんですよ。

また、秋田県比内町には全登の子孫という人たちが住んでいるそう。戦後、全登が伊達政宗に保護され、その後に津軽の津軽信枚の元に身を寄せたという話で、彼の息子たちは比内町の扇田という場所に居を定めたのだそうです。
一方、高知県の香美市にも全登の墓と伝わるものがあります。

「明石全登の墓(高知県香美市)」

「明石全登の墓(高知県香美市)」

このように、全登の行方は今もって杳として知れませんが、江戸幕府は「明石狩り」まで行ったと言われていいます。キリシタン兵を束ねる力があり、武将としても優れていた彼を、生死不明のまま放っておくのは脅威だったのでしょう。それほどの存在感を彼が持っていたということです。

(xiao)

参照元
香美市観光協会ブログ

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