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【 真田幸村を討った男? 】西尾宗次が残した幸村の最期とは

昨日最終回が放送された大河ドラマ「真田丸」。
ドラマでは、大坂夏の陣で家康を追いつめたものの討ち取ることはできず、安居神社で佐助とともに最期の時を迎えていました。史実でも本当のところどうだったのか定かではありませんが、幸村を討ち取った男といわれているのが、西尾宗次(久作)です。無名だった彼は、この大功により一躍名を挙げることになりましたが、その後どんな人生を送ったのでしょうか。

あの真田幸村を討ち取った!?

安居神社に建つ幸村像と戦死跡之碑

もとは武田家、その後結城秀康に仕えた宗次は、夏の陣の際は秀康の息子・松平忠直に従い鉄砲隊に配属されていました。そして、安居神社で休息していた幸村に遭遇し、討ち取ったといわれています。
この大功によって、徳川家康・秀忠から褒美をもらい、松平忠直からは刀を賜ったそうです。石高も1800石に加増されました。

しかし、幸村の首を取ったことについては幾つもの説があります。
宗次は、はじめは誰の首を取ったかわかっていなかったものの、幸村と旧知の人が幸村の首だと認めたため、家康に届けたそうです。しかし、そこで報告を誇張したようで、家康の怒りを買ってしまいました。ただ、同僚の野本右近が敵将の御宿政友を討ち褒美を受けており、同様の恩賞をもらったようです。

また、相手が幸村と知らず戦って討ち取ったとも、幸村が「わしの首を手柄にせよ」と首を差し出したともいう話があり、この辺がもしかすると誇張した報告と関係があるのかもしれません。
ちなみに当時、細川忠興は書状に「真田幸村が傷を負いくたびれているところを討ち取って首をあげたということで、全く手柄ではない」と評しています。

最近発見された宗次の手紙の写しでは、「幸村と槍を合わせて討ち取った」と自身が戦って討ち取った旨が書かれているそうです。
やはり幸村は最期まで諦めず戦っていたのでしょうか。

その後、宗次は西尾家と秀康の菩提寺・孝顕寺(福井県)に信繁の首塚を建て、そこに彼の鎧袖を埋めたそうです(今は首塚の痕跡がない)。首を埋めた場所は西尾家の秘密となっているそうですよ。

どれが本物?幸村の首実検

大坂の陣で、幸村には7人もの影武者がいたと言われています。真田左衛門佐を名乗る鎧武者が次々と現れたため、首がいくつも届けられて首実検が混乱したそうですね。叔父・信尹が「見覚えが無い」と言ったのもうなずけます。

「大迫力の真田の赤備え。見分けがつきません」

なぜ宗次が届けた首が本物とされたかというと、兜に名があり、真田の家紋である六文銭があったからだと言われています。歯や傷跡も総合して決めたようですね。
このように、ちょっと曖昧な首実検だったために、幸村生存説いわゆる「薩摩落ち」の噂が流布していくことになります。さて、真相はいったいどこにあるのでしょう・・・。

幸村の首塚の背面に置かれていた「真田地蔵」は、福井市立郷土博物館に寄贈されており、現在見ることができます。
また、福井県立図書館でも、新資料をもとに幸村最期の謎に迫る企画展が開催中です。気になる方は、真田丸ロスの解消もかねて、ぜひ福井へ足を運んでみてはいかがでしょうか。

(xiao)

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