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【 衝撃の最期 】大河ドラマ関係者が語る小野政次の実像と死の真相

現在放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」。先日の放送では、ついに一番のキーパーソンである小野政次が処刑されてしまいました。その衝撃的な演出や、フィクションを史実に近づける手腕に絶賛の声が今なお続いています。
「政次ロス」の衝撃冷めやらぬなか、資料提供として作品に携わる小和田泰経氏に、史実における小野政次という人物について、また大河ドラマにおける史実とフィクションのバランスについて伺いました。

制作サイドも衝撃だった政次の最期

大河ドラマ「おんな城主 直虎」も佳境に入ってきました。8月20日の第33話では、ついに高橋一生さんが演じる小野政次が処刑されてしまいました。「政次ロス」は、しばらく続きそうな予感がします。
 
さて、一切の罪を背負って処刑されてしまった政次ですが、史実としてこのような殺され方をしたことは確認できません。政次が処刑されるに至った経緯については、すべて大河ドラマでのフィクションです。ちなみに、今回の「おんな城主 直虎」では、ドラマのなかで史実だと言いきれるのは2割くらい、あとの8割はフィクションといったところでしょうか。フィクションがほとんどといっても、史実を無視しているわけではありません。残された資料が圧倒的に少ないため、史実だけを重視すれば、ドラマとして成り立たないからです。

これまで大河ドラマといえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった三英傑や、武田信玄・上杉謙信などの有名な戦国大名を主人公にするものがほとんどでした。それが、徳川家康の家臣となった井伊直政の、さらにその前時代をとりあげるというのですから、かなりの冒険だったといってよいかもしれません。

この「おんな城主 直虎」には縁あって資料提供という形で参加させていただいておりますが、そんな自分自身でも、台本をみて驚くことが多々ありました。今回の政次の最期については、一番驚いたと言っても過言ではありません。

大河ドラマができるまで

大河ドラマは、年表や資料をもとに書かれた白本とよばれる第一稿の台本を作るところから始まります。この白本をもとに、時代考証会議をふまえ、セリフや言い回しを修正した第二稿の青本が作られ、この青本をさらにブラッシュアップした完本ができます。この完本をもとに、実際の撮影が始まるというかなり気の遠くなるような作業を経て、1話のドラマがようやく完成します。

脚本として完成させるためには、いろいろなハードルがあります。そもそも、名前や生年すら、よくわかっていないことが多いからです。政次の場合も、ご多分に漏れず、名前や生年はわかっていません。
当時、名前は神聖なものとみなされていたため、軽々しく公言するものではありませんでした。そのため、ふつうは本名ではなく通称でよばれます。通称には、国司の称号である受領名(ずりょうめい)が用いられることが多くありました。政次も通称は「但馬守」ですので、直虎から「但馬」と呼ばれているわけです。但馬守というのは、本来は現在の兵庫県北部に位置する但馬国の国司ですが、この時代は有名無実化しており、単なる称号でしかありません。政次が、但馬国の国司だったというわけではないのです。

ちなみに、今回の大河ドラマでは政次として出てきますが、別に道好という名前も伝わっており、確実なところではわかりません。当時は、「小野但馬守」と呼ばれていたはずですから、史実を重視するならドラマ上もそうするべきなのでしょう。でも、それでは誰のことなのかわかりにくいため、政次の名を採用しているわけです。

龍潭寺には小野家代々の墓はあるが、政次の墓はない。
(写真提供:浜松市)

死後は怨霊となった?史実における小野政次

その政次ですが、正直にいって、このような最期を遂げることになるとは思っていませんでした。というのも、従来は、政次が井伊家を乗っ取ろうとしていた奸臣という評価がされてきていたため、専横の咎で処刑されたとみなされてきたからです。江戸時代になって記された井伊家の伝記である『井伊家伝記』では、政次は徳川家康によって処刑されたことになっています。今回の大河ドラマでも、井伊谷侵攻を嚮導した近藤康用を味方にしておくため、家康が黙認したという形になっていました。しかし、実を言うと、それも事実であったのかはわかりません。

近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時のいわゆる井伊谷三人衆の道案内で井伊谷に徳川家康の軍勢が侵攻してきたとき、井伊谷を支配下においていた政次は捕らえられ、井伊家の刑場であった井伊谷の蟹淵(がにぶち)で処刑されてしまいます。ちなみに、このとき、政次の二人の男の子も殺されました。ドラマの設定では結婚していませんでしたが、実際には「なつ」ではない正室がいたことになります。史実として明らかになっているのは、これだけです。どうして殺されることになったのかは、確かな史料からはみえてきません。
『井伊家伝記』に記されるよう、井伊家を専横した咎で処刑された可能性もあるでしょう。でも、井伊谷を専横したとはいえ、政次が井伊谷を支配下においていたのは、多く見積もってもわずか34日間のことでした。

井伊谷城東にある二宮神社
(写真提供:浜松市)

 
井伊谷にある二宮神社の神主を務めた中井家に伝わる伝承によれば、政次は井伊家の一門衆から切腹を命じられ、その後、怨霊となって祟りをなしたことから「但馬明神」として祀られたといいます。つまり、政次は怨霊となり、それを鎮めるために神として祀られたということになります。

日本の歴史上、有名な怨霊としては、藤原氏によって左遷させられた太宰府で寂しく没した菅原道真、平氏一族の争いから不本意ながら朝敵として追討された平将門、保元の乱で後白河天皇に敗れて讃岐国に配流された崇徳上皇が知られています。こうした怨霊は、いずれも無実の罪を着せられたという恨みを抱いたまま亡くなったとされており、その死に関係する人々に祟りをもたらすと考えられました。
政次の場合も、中井家の伝承が事実であるとすれば、無実の罪で殺されたがために怨霊になったという意識が人々のなかにあったのでしょう。だからこそ、祟りを鎮めるため、二宮神社の境内に但馬社を創建し、神として祀ったわけです。ちなみに、但馬社は現在、天王社に合祀されています。

史実の政次も井伊家の葛藤を背負っていた?

 

政次の祖先といわれる小野篁
(弘仁寺蔵)

政次がどのような武将で、なぜ処刑されることになったのか、残念ながらよくわかっていません。主家である井伊家の記録すらまともに残されていないうえ、小野家の嫡流が滅亡してしまったからです。
 
小野家というのは、平安時代の文人公卿として名高い小野篁(おののたかむら)の子孫にあたります。後世の系譜によれば、小野篁が遣唐副使を辞退したことにより嵯峨天皇の勘気にふれて流罪になったとき、子の俊生(としなり)が遠江国に土着しました。その小野家は、直虎の曾祖父にあたる直平の代に、井伊家の家老として招かれたといいます。
 
政次は、井伊家の筆頭家老であった小野和泉守政直の嫡男として生まれ、やがて自らも筆頭家老として政治の実権を握りました。ただ、当時の井伊家は、駿河国の今川家と三河国の徳川家に挟まれており、政次が難しい舵取りをせまられていたことは想像に難くありません。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしたあとも、今川家はすぐに没落したわけではなく、跡を継いだ氏真は、領国の立て直しに必死でした。

井伊家においても、これまで通り今川家に従うか、今川家の軛(くびき)から脱した徳川家につくか、議論を繰り返してきたはずです。結果的に今川氏真は駿河国に侵入した武田信玄に駿府を追われ、井伊谷には徳川家康が侵攻してきました。この時点で、井伊家には、徳川家につくほか選択の余地はなくなります。そして、直虎の跡を継いだ直政(虎松)が家康に重用されたことで、今川家に従おうとした形跡はすべて消し去る必要があったのでしょう。そうした井伊家の葛藤をすべて政次が背負って処刑させられたという可能性もあります。
 
そういう意味で、政次が「忌み嫌われ井伊の仇となる。おそらく私はこのために生まれてきたのだ」という自虐的なセリフも、案外、真実だったのかもしれません。もちろん、生年のわからない政次が直虎の幼なじみというのは、フィクションです。ですので、直虎に恋心をもっていたのかは、事実としてみたら、まったくわかりません。とはいえ、井伊家を守るために死を選んだ忠臣だった可能性もあることを示したことで、画期的なドラマだったように思います。

(小和田泰経)

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