大河ドラマ「真田丸」では新井浩文さんが演じ人気沸騰中の武将、秀吉チルドレン・加藤清正。
先ごろの地震で被害の大きかった熊本城の初代城主としても有名です。そんな加藤清正は数々の伝説を持っています。今回はそんな加藤清正をご紹介しましょう。
秀吉に仕え、心酔した時代
永禄5(1562)年、尾張国に生まれた加藤清正は、母親が豊臣秀吉の生母・大政所の親戚だったこともあり、幼少時から秀吉に小姓として仕え始めました。親戚筋として秀吉にはとても可愛がられたそうです。
清正が一躍脚光を浴びたのは、本能寺の変の後、秀吉が覇権を争った柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでした。敵将のひとりを討ち取った武功は秀吉にも激賞され、「賤ヶ岳の七本槍」に名を連ねます。
清正と言えば熊本地震で大きな被害を受けた熊本城ですが、この地に彼がやって来たのは、秀吉の九州征伐終了後、天正14(1586)年のことでした。築城の名手として知られた清正は熊本城を改築し、この地で治水事業に力を入れ農地開発を行うなど善政を行っています。
朝鮮出兵時の清正の活躍は目覚ましいものでした。
文禄元(1592)年の文禄の役の際には彼は遠く満州地方まで進撃し、その名を轟かせます。次の慶長の役における蔚山城の戦いでは、たった500の兵で明・朝鮮連合軍57000に対峙し、援軍が来るまで10日間持ちこたえました。
秀吉亡き後、豊臣の行く末を知らずに逝く
関ヶ原の戦いでは彼は豊臣方の西軍ではなく、東軍に参加しています。
これは、豊臣から離れたというよりもむしろ石田三成と反りが合わなかったためのようです。
清正は関ヶ原本戦ではなく拠点の九州において西軍勢力の大名を破り、この功績によって52万石の大名となりました。
慶長16(1611)年、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見した際、この間を取り持ったのは清正でした。
両者ともに清正の役割に期待していたのでしょうが、この会見後帰国の途についた彼は発病し、熊本で死去してしまうのです。
この後に大坂の陣が勃発し豊臣家は滅亡に向かうわけですが、それを見ずして逝った彼はさぞかし心残りだったことでしょう。
清正伝説・鬼上官の虎退治
朝鮮出兵で獅子奮迅の活躍を見せた清正は、現地の人々から「鬼上官」として恐れられました。
現地には、泣き止まない子供に「鬼上官が来るぞ」と言うとぴたりと泣き止むという言い伝えがあるそうです。身長190㎝の清正は長烏帽子形兜というこれまた長い兜をかぶっており、その姿は魔物か巨人かといったところだったのでしょう。それが余計に怖かったのかもしれません・・・。
また、朝鮮で清正が虎退治をしたという逸話も有名で、浮世絵などの題材になっています。
清正の陣の近くに虎が出現し、馬を連れ去ったり家臣を殺したりしていました。それに怒った清正は山狩りに行き、虎を見つけるとその喉元を槍で一突きして仕留めたそうです。
清正が虎を狩ったことは事実らしく、古橋左衛門又玄による清正の伝記「清正記」には清正が虎の皮を秀吉に贈ったことが記されています。
清正だけでなく、当時朝鮮出兵していた大名たちは虎狩りをしたようです。虎の皮や肉が秀吉に喜ばれたためだそうですが、ただ、あんまりたくさん送られてくるので秀吉は「もういいよ」とお達しをしたそうです。
「真田丸」では、新井浩文さんが演じており、井戸をのぞいていた真田信繁を落とそうとしてつかみ合いとなりました。「秀吉命」というかもはや信者にしか見えず、どこか怖い感じすらします。
しかし史実における清正は、秀吉を尊敬していましたが、一国の主として西軍につくという選択はしませんでした。
自分の気持ちよりもまず守るべきは国だったのです。秀吉への尊敬の念が強いあまりに道を間違うようなことはありませんでした。
豊臣への忠誠を秘めつつ徳川に臣従した胸中はどんなものだったのでしょう。
そんな彼を思いつつ、熊本城の復興を祈ろうではありませんか。
(xiao)
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