幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第4回のテーマは新選組隊士・山南敬助の脱走です。元治2年(1865)2月23日、壬生の屯所前川邸の一室で、切腹をとげた山南。その要因ともなった脱走の真相に迫ります。
山南という姓
山南敬助の山南という姓は、長く「やまなみ」と読まれてきましたが、現在では「さんなん」と読まれることが多いようです。不思議に思われる方も多いのではないでしょうか。
実は、「山南」は「さんなん」と読むのが正しいのです。当時の記録に、「三南」、「三男」と誤記されることがよくあり、また新選組の同僚だった永倉新八もそう呼んでいたことが、永倉の談話を回想録にした小樽新聞の記事「永倉新八」のなかで、「山南」に「さんなん」と振り仮名が振ってあることでわかります。
新選組研究の先駆者である子母沢寛は、この状況について、『新選組遺聞』のなかで、「隊士達はヤマナミ先生と呼び、同輩は字音をもじってサンナンといっていたものである」と理由づけしています。
しかし、「さんなん」という音は決して語呂がいいものとは思えず、愛称として使われるのは不自然としかいいようがありません。それに永倉は山南より6歳年下で、気安く愛称で呼ぶような間柄でもないのです。
やはり「さんなん」というのは愛称などではなく、本当の読みだったーー。そう考えるのが自然といえるでしょう。
大河ドラマ「新選組!」では「やまなみ」に
私は、2004年にNHK大河ドラマ「新選組!」の時代考証をするときに、この問題に直面してどうするべきか迷いました。そのときは、長く親しまれてきた「やまなみ」を変えることで、視聴者の方々に余計な混乱を与えるのは避けたいという思いから、「やまなみ」のままで通しました。
しかしその後、2008年に発表されたゲーム「薄桜鬼~新選組奇譚~」のなかで、山南の読みが「さんなん」とされたことから、これが一気に世間に広まりました。同作品が莫大な人気を獲得したため、いまではすっかり「さんなん」が当たり前のようになっています。
私としては複雑な思いがありますが、史実がそうである以上、文句をいうわけにはいきません。今後は山南敬助のことを、「さんなん・けいすけ」と、堂々と呼んでいきたいと思っています。
新選組との確執
近藤勇、土方歳三らとともに京都に上り、新選組を結成した山南でしたが、実は近藤らとは思想的に相容れないものがありました。それは、徳川幕府の支配下にありながら、天皇を何よりも尊ぶ尊王攘夷思想を抱いていたからです。
新選組を創ったころはまだ、両者の思想のずれは許容範囲にありましたが、しだいにその溝は埋めがたいものになっていきました。元治元年(1864)に入ると、山南は病気と称して隊務をボイコットするようになり、6月に起きた池田屋事件にも病気を理由に出動していません。
その後も山南の姿は新選組の活動記録から消え、存在感をすっかり失ってしまいました。近藤にとっても、こうなってくると、いつまでも昔の仲間だからと大目に見ているわけにもいかなくなってきます。
なんらかの判断を山南に対して下さなければ、ほかの隊士に悪影響を与えることになりかねない。そう近藤が考えていた矢先、先に行動を起こしたのは山南のほうでした。
慶応元年(1865)2月下旬、突然山南は、新選組を脱走して江戸に向かったのです。
日付については、22日もしくは23日のことと思われますが、どちらであったのか確実なことはわかっていません。隊からは沖田総司が追っ手に選ばれ、東海道の大津まで追跡したところで山南を発見、すぐさま壬生の屯所に連れ戻されます。
新選組には、「局を脱すること」を禁止する法度がありましたが、この時点までこれに違反して切腹させられた隊士はいませんでした。あるいは山南は、法度がそれほど厳格に運用されるものとは思っていなかったのかもしれません。
2月23日夕刻、壬生の屯所前川邸の一室で、山南は切腹をとげました。33歳の生涯でした。
なぜ山南は脱走したのか
実は山南が脱走の罪で切腹したと書かれた記録は、極端に数が少ないことで知られています。わずかに、永倉が小樽新聞に語った「永倉新八」の記載一つだけなのです。
永倉が残したもう一つの記録「浪士文久報国記事」には山南の最期が一切記されていないため、「永倉新八」の記載はきわめて貴重な証言ということができます。
「山南はついに意を決し、脱走をはかって江州の大津まで落ちのびた。近藤はこれを聞くより心中ひそかによろこんで、山南が法令にそむくのゆえをもって士道のうえから切腹せしめんと、沖田総司をやって追跡せしめ難なく山南を召し捕った」(「永倉新八」)
すでに山南を隊に不要な者と見なしていた近藤にとって、山南のほうから脱走してくれたのは好都合なことでした。このあたり、ドラマなどでは近藤の苦衷が語られて泣ける場面なのですが、永倉によれば近藤は逆によろこんでいたというのです。
新選組ファンにとってはあまりうれしくない話ですが、事態を間近で見ていた永倉がそう証言しているのです。案外、こういうことが事実だった可能性は十分にあるでしょう。
この「永倉新八」には、よく読むと山南が脱走を決意した理由についても、はっきり書かれています。
「このたび参謀という客座の椅子にすわった伊東ははしなくも山南の理想にかない、人物の貫目もたしかに近藤のうえにあるとみて、一夜敬助は甲子太郎の議論を傾聴しことごとく敬服してついに一つの黙契ができた。そして他日おおいになすところあらんと相互に期待するにいたった。こうして思想のあい投合する両人がそののちしばしば談論をかさぬると聞いて隊長近藤はさらに猜疑の眼をもってかれらをむかえるので山南はついに意を決し、脱走をはかって――」
これによれば、山南は新入隊の伊東甲子太郎と意気投合し、そのために一層近藤ににらまれて脱走せざるをえなくなったというのです。近藤との対立から山南が脱走したのは確かでしたが、決断するきっかけは伊東の存在にあった。そのあたりの経過を、「永倉新八」は教えてくれています。
そして、山南の脱走を記した記録がほかにない以上、これらの記述は俄然重みを増すことになります。山南の脱走は、伊東との関係が結果的にもたらしたものーー。今後はそうした解釈が必要となってくるでしょう。
新選組を描いた小説などでは、山南は近藤とも意見が合わなかったが、伊東とも一線を画していたなどと書かれることもありますが、それは山南を好漢に設定したかっただけのことにすぎません。やはり唯一の記録である「永倉新八」が山南と伊東の親密な関係を語っているのですから、そう素直にとらえるのが史料解釈の正しい態度といえるのです。
山南の切腹に際し、伊東が詠んだ追悼歌が残されています。
「春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に惜しまるるかな」
(「残し置く言の葉草」)
山南の死を惜しむ伊東の真情が伝わってくるような気がします。彼らはまごうことなき同志だったのです。
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