『第一義』を掲げ、圧倒的なカリスマ性で越後をまとめた上杉謙信。
謙信は、他の大名とは全く異なる価値観の持ち主でした。
というのも、自らが守護となった越後以外に領土を増やす欲がなかったのです。
関東管領になって北条氏との決戦のため度々関東に出向いても、用が済めば支配することなく軍を引き上げるといったように、領土拡大を目指す他の戦国大名とは一線を画していました。
大名としてはある意味特異といえる人間性を、謙信はどのように培い、戦国時代にいかなる影響を与えたのかご紹介しましょう。
林泉寺での修行
謙信は、享禄3(1530)年に、越後守護代・長尾為景の四男(次男説もあり)として生まれます。
嫡男ではないため、将来を僧として身を立ててもらおうと為景は考えました。謙信が7歳になると春日山城下にある林泉寺に預けられ、住職の天室光育に教えを受け育ちます。
謙信の毘沙門天信仰への傾斜、女性と交わらないなどの考えや生活は、武将というよりは僧のようだったと言われていますが、その基盤はこの林泉寺時代に培われたのでしょう。
謙信は仏教の教えを学ぶ一方で、兵学にも興味を示しました。
長尾家の家督を継ぐ
天文11(1542)年、父・為景が死ぬと、越後は乱れ、本来の越後守護の上杉定実が復権を狙って画策します。
こうした動きを長尾家の家督を継いだ兄・晴景は制圧できませんでした。
そこで、謙信が寺から呼び戻されたのです。
謙信は反乱軍を瞬く間に鎮圧し、越後諸将の期待を背負います。そしてついに、兄・晴景の養子に入るという形で長尾家の家督を継ぐことになったのです。謙信19歳の時でした。
また、越後守護の上杉定実が、嗣子なく亡くなったため、将軍・足利義輝は謙信を越後国主として認めます。
その後も越後の内乱を治め、謙信22歳の時に越後平定を成し遂げたのです。
第一義を掲げ、軍神と呼ばれた謙信
謙信は、越後国主に任じてくれた将軍家に感謝の念を抱きます。そして、乱れた秩序を回復させ、天下を静謐にすることを大事にしました。
そのため、本来の領土を追われた武将を庇護し、復権させることが第一と考えたのです。
この謙信を頼って、北条氏に追われた関東管領上杉氏や武田氏に追われた信濃の諸将が越後にやってきます。
そして、彼らを復権させるべく北条氏康・武田信玄との戦いに臨むことになるのです。
謙信は、戦に臨む前に必ず春日山城の毘沙門堂に籠って、戦勝の祈願を行いました。
こうして臨んだ戦ではほとんど負け知らずで、謙信も自身を毘沙門天の生まれ変わりと思うようになります。
そのカリスマ性に、越後将兵は戦場で謙信に命を預けました。こうして、戦国最強ともいわれる上杉軍団が出来上がっていくのです。
謙信はその最強越後軍団を率いて、北条氏を小田原城籠城まで追い込み、武田信玄には川中島の戦いで心胆を寒からしめ、織田信長の大軍を手取川で一蹴するなど、天下にその武名を轟かせます。
しかしこのように有力武将と戦ったのも、関東管領を継いだ者として関東に平穏をもたらすため、
信玄との戦いも信濃諸将を復権させるためであり、信長と戦ったのも将軍家を追放したためで、領土拡張の目的ではなかったのです。
好敵手からも信頼される
こうして他人のために戦う謙信の生き様を、北条氏康は「謙信は一度請け負ったら骨になるまで義理を通す男」と評し、
信玄も勝頼に「儂が死んだら謙信を頼れ」と言い残したほどでした。
1578(天正6)年に謙信は49歳の生涯を閉じます。
信義など形骸化していた時代に、唯一人心から「義」を大事にした謙信の生き様は、敵味方を問わず戦国の世に生きる人々の心を捉えていったのです。
(黒武者 因幡)
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