保元の乱の後、武士の勢力が台頭していきました。その中の2大勢力が、平氏と源氏。しかし、最初に頭一つ抜けたのは平清盛率いる平家一門でした。ただ、清盛は大きなミスを犯します。源氏の嫡男・頼朝を殺さなかったのです。それがやがて、自分の一族を滅ぼすことになるとも知らずに・・・。さて、今回は清盛最大の失敗と言われる頼朝の島流しについてみていきましょう。
保元の乱と平治の乱
保元の乱の後、政情は再び乱れました。二条天皇親政派と後白河院政派が争う中、後白河上皇の側近として急速に力をつけきた信西を良く思わない勢力が両派に存在していたのです。そのため、情勢は複雑かつ不安定なものとなりました。 そんな中、反信西派の藤原信頼がクーデターを企てます。ここに加わったのが、頼朝の父・源義朝でした。彼らの領地は同じ東国にあり、利害関係が一致したのです。 そして起きたのが、平治元(1160)年の平治の乱でした。保元の乱から4年後のことでした。 京都に不在だった清盛は動揺しますが、やがて態勢を立て直すと信頼や義朝らを迎え撃つ立場に回り、彼らを撃破したのでした。
捕らわれた頼朝の処遇
東国へ向かって逃げた義朝ですが、途中で子供たちともはぐれ、やがて捕らわれて殺されます。父と別れ別れになってしまった頼朝もまた追っ手に捕まり、清盛の拠点・六波羅へと送られました。 賊軍の将の息子である頼朝の処遇は、死刑が当然と目されていました。 ところが、まだ13歳だった彼を見たひとりの女性が、清盛に助命を願います。清盛の継母・池禅尼でした。 彼女の言葉には諸説ありますが、ひとつは早逝した息子・家盛に頼朝が似ていたというもの、もうひとつは幼すぎて殺してしまうのはしのびないというものでした。 清盛は、ここで池禅尼の言葉を受け入れ、頼朝を伊豆の蛭ヶ小島へ流刑とします。 というのも、池禅尼は清盛の継母であるだけでなく、保元の乱の際には、自らが崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母であったにもかかわらず上皇側の敗北を予見し、息子らに一族の団結を支持して後白河天皇側に付くように指示したという大きな存在だったからでした。 また、頼朝が仕えていた上西門院(後白河上皇の姉)や、頼朝の母の親族のはたらきかけもあったと考えられています。 ここまで見れば人情味ある美談で終わるのですが・・・その先がありました。 伊豆で成長した頼朝は源氏の棟梁となり、打倒平家の兵を挙げるのです。 そして清盛の死後、平家を滅ぼすことになってしまうのでした。
徳川家康はこの島流しを参考にしていた!?
敵に情けをかけたがゆえに結局は自らが滅ぼされるという事実を、徳川家康は教訓にしていました。 今川の人質として過ごした幼少期、読書に耽った家康は、平氏と源氏の物語が書かれた「吾妻鏡」に心奪われたのです。そこにはもちろん、清盛と頼朝のエピソードも書かれていました。 大河ドラマ「真田丸」では、家康が上杉景勝と2人で酒を呑むシーンがありましたね。そこで家康は「今の儂があるのは太閤殿下のおかげじゃ」と述べますが、それでも豊臣秀頼を生かすことはありませんでした。そこには、「吾妻鏡」で読んだ清盛と頼朝のことが頭にあったのでしょう。もし秀頼を生かしておけば、将来必ず徳川を脅かす存在になるということを、家康はわかっていたのでしょうね。たとえ一時的に国替えをして生き延びさせたとしても、結局は殺してしまったのかもしれません。 母の言葉を受け入れたことが、結果として最大のミスとなってしまった清盛。 家康はそれを教訓として、心に刻んでいたのでしょう。「真田丸」の家康は、本当は情のある人物に感じられましたが、そこに流されなかったことが江戸幕府の安泰の歴史を生み出したのです。
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