幕末の英雄たちの中でも、特に人気の高い人物が土佐の坂本龍馬です。福山雅治さんが演じた大河ドラマ「龍馬伝」を観て、龍馬のファンになった方も多いのではないでしょうか。そんな方にオススメしたいゆかりの地のひとつが、龍馬のお墓です。
今回は、彼のお墓がある場所や、そこにある理由について、周辺情報を交えながらご紹介していきます。
坂本龍馬のお墓の場所
坂本龍馬は土佐藩(現在の高知県)で郷士という身分の低い家に生まれました。その後の彼が、日本の歴史を動かす立役者の一人となったことは誰もが知るところでしょう。暗殺されてこの世を去った龍馬ですが、彼のお墓があるのは出身地の土佐ではありません。意外にも、命を落とした「京都」にあるのです。
京都霊山護国神社
龍馬のお墓は、京都府東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。
高知県の護国神社や東京都の靖国神社にも祀られているものの、遺骨は京都霊山護国神社に埋葬されているようです。また、ここには横須賀にお墓のある妻・お龍も分骨されています。
現在まで小説・映画・テレビドラマなどさまざまな作品で取り上げられるなど、日本人にとって龍馬は魅力的な歴史上の人物。お墓もさぞ立派だろうと思いきや、意外と質素なものになっています。それでも実際にお墓参りができるため、毎年訪れる龍馬ファンが多いようです。
供に眠る”中岡慎太郎”
龍馬のお墓の隣には、中岡慎太郎のお墓が並んでいます。中岡といえば龍馬とともに薩長同盟のために尽力した人物。中岡は龍馬と同じく近江屋で襲撃されましたが、ほぼ即死状態だった龍馬とは違い、その後2日間生きながらえました。ここで犯人に関する証言を残しましたが、結局この時の傷によって逝去してしまいます。
同じ志を持ち同じ場所でこの世を去った2人が、死してなお隣同士に立っていることにはロマンを感じますね。果たして死後の2人はどんな対話をしているのか、そんな想像が膨らみます。
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土佐ではなく、なぜ京都にあるのか?
龍馬のお墓はなぜ京都に建てられたのでしょうか? これは京都霊山護国神社の成り立ちにも関係があったようです。
京都霊山護国神社ができた由来
京都霊山護国神社は、明治元年(1868)の明治天皇の詔により、維新にたおれた志士たちの御霊を祀るために創建されました。当初は「霊山官祭招魂社(かんさいしょうこうしゃ)」と呼ばれていましたが、昭和14年(1939)に現在の社号「京都霊山護国神社」となりました。
東京の九段下にある靖国神社は幕末・明治維新の志士やそれ以降の軍人・戦没者らを「英霊」として祀っているので、存在の意味合いとしてはこれに似ているようです。
龍馬以外にこんな人も…
龍馬の他に京都霊山護国神社に祭られている幕末志士として有名なのは、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、久坂玄瑞、吉村寅太郎らです。動乱の世を彩った人物が一堂に会していると考えると、すごいことですよね。
一般の神社は神話の神様などを祭神としますが、京都霊山護国神社の場合は龍馬を含む幕末志士1356柱、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者約7万3000柱が祭神とされています。
龍馬のお墓の周辺情報
お墓のある東山エリア周辺には龍馬にまつわる建物や場所が多く存在していることでも有名です。ファンならば一度は訪れたいスポットをご紹介します。
霊山歴史館
昭和45年(1970)に開館したミュージアムで、全国初の幕末・明治維新期の総合研究専門博物館です。京都霊山護国神社に併設されています。
5000点を超える維新志士、幕府諸侯らの収集資料から、約100点を選んで展示。倒幕派志士として著名な坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作らの遺品のほか、佐幕派にあたる新選組、松平容保、徳川慶喜ら幕府側の資料も数多く所蔵しています。両派の観点から幕末維新史を振り返ることができるため、幕末ファンならば一度は訪れたい貴重な空間といえるでしょう。龍馬の暗殺に使用したとされる桂早之助の刀なども展示されています。
円山公園
桜の名所として有名な円山公園には、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人が並んだ像が建てられています。左側に龍馬が立っており、右側に中岡が座っていますが、これは中岡の背の低さを隠すためのポーズなのだとか。
この像は昭和初期に京都高知県人会の有志によって作られましたが、戦争の際に一度撤去され、昭和37年(1962)に再建されました。かなり歴史のある像といえます。
円山公園の西には八坂神社、北には知恩院もあるので、観光の際に立ち寄ってみるのもいいでしょう。
近江屋跡
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所である醤油商・近江屋は残念ながら現存しておらず、今は回転寿司店になっています(2018年現在)。その代わり、「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」という碑と案内板が建てられました。
近江屋に移り住む前の龍馬は酢屋に宿泊していましたが、この酢屋の跡地や土佐藩邸の跡地も近い距離にあります。当時の龍馬は脱藩していたため土佐藩邸には近づけなかったと考えられますが、彼がどのように暮らしていたか、その足取りを辿ってみると身近に感じられるかもしれません。
明保野亭(あけぼのてい)
清水坂から北に延びる産寧坂(さんねいざか)の途中にあります。明保野亭は龍馬の定宿の一つといわれており、幕末志士たちが密会の場としてよく利用していました。司馬遼太郎の作品「竜馬がゆく」にも登場しています。
幕末と今では多少場所が変化しており、当時は2階から京都が一望できたそうです。追手の存在を把握したり、大きな夢を語ったりするには、最適な場所だったのでしょう。
明保野亭は現在でも営業しており、会席料理やお弁当、龍馬にちなんだ御膳などが味わえます。
維新の志士たちが眠る場所
長らく歴史の表舞台に立っていた古都京都には、数えきれないほど多くの歴史が刻まれています。特に京都霊山護国神社には龍馬だけでなくさまざまな志士のお墓があるので、ぜひ歴史を偲んでお参りしてみてはいかがでしょうか。幕末・明治維新期の偉人たちを深く知るきっかけになるかもしれませんよ。
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