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【島津四兄弟の長男】豪傑揃いの弟たちをまとめた島津義久

戦国時代、九州に一大勢力を築いた島津家第16代当主・島津義久。島津四兄弟の長男です。華やかな活躍を見せた二男・義弘とは対照的ながら、後に薩摩藩として栄えた家の基礎を築きました。
そんな義久の魅力をたっぷりご紹介します。

島津家の扇の要として

島津義久像(泰平寺公園)
肖像画が残っていない島津義久像(泰平寺公園)

島津四兄弟の長兄として、義久は島津家を支えました。彼の場合は率先して戦場に出ていくというよりは、本拠地にあって全体を見渡し、弟たちに的確な指示を出していたという感じがしますね。ちょっと地味かもしれませんが、扇の要のような存在だったと思います。

幼いころの彼は大人しい少年だったそうですが、彼の祖父・日新斎は「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将の材徳自ら備わり(略)」と彼を評しています。島津家中興の祖と呼ばれた祖父の眼鏡にかなった器を持っていたのですね。だからこそ、豪傑揃いの弟たちまとめ上げ、上手に使いこなすことができたのでしょう。

強気な策略家だった義久

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豊臣政権下では弟の義弘が重用されましたが、そこで義弘と対立せずに「両殿体制」を維持したままでいたのが、義久の粘り強さでもありました。一方、最後に勝てるのは自分だという自信もあったのかもしれません。

そうした義久の強さがあらわれたのが、関ヶ原の戦いと戦後処理です。
京都にいた義弘が援軍を要請してきましたが、義久は応じませんでした。そして、辛くも逃げ帰ってきた弟を叱りつけて蟄居させます。

本来なら島津家の一員が関ヶ原において西軍へ加担したことで改易は免れませんでしたが、「あれは弟・義弘の独断であり自分は何も知らなかった」と義久は言い張り、結果的に折れた徳川家康から本領安堵されたのでした。
結果的に、これで義弘の命も守られ、そして島津家も守られたのです。

過去に、秀吉に従わなかった三男・歳久を討たなければならなかったこともあり、もうこれ以上弟を死なせたくなかったのかもしれません。

長兄として、弟たちへの義久の気遣い

こんな逸話も残っています。
馬追を見学していたときのこと、三男・歳久が馬を見ながらこう言いました。
「馬の毛色はだいたい母馬に似ているようですが、人間もきっと同じでしょうね」
四男・家久だけは妾腹の子だったため、それを皮肉ったのです。

義久はすぐに弟の言いたいことを察し、こう答えました。
「そうとも言い切れないぞ。人には心の徳があるし、学問に励み徳を磨けば父母よりもすぐれた人間になれるのだ」

歳久のプライドを傷つけないように、暗にたしなめ、家久には無言のエールを送ったのです。
この言葉に感激した家久は武芸と学問に励み、兄弟の間では優劣がなくなったといいます。

義久の長兄らしい優しさと懐の深さがわかる逸話です。

「釣り野伏せ」戦法を考案!

義久というと城にいて指示を飛ばしていたイメージが強いのですが、そんな彼が活躍した戦いが、大友宗麟との耳川の戦いです。

大友宗麟像
大友宗麟像

当時、九州で大きな力を持っていた宗麟の軍勢に対し、数で劣る義久は「釣り野伏せ」という戦法を用いました。

まず、軍を3つに分けて2つを左右に伏せさせます。
そして中央の1つを敗走に見せかけながら後退するのです。それを追って敵が前進してきたところに、伏せていた左右の2つが襲いかかり、殲滅するというものでした。

これを大友軍に用いた義久は、2千~3千の首級を挙げて大勝し、島津の力を見せつけたのです。
義久が武将としてもすぐれていたことを示す出来事です。しかし有能な弟たちが3人もいれば、自分がわざわざ前に出ていく必要はないと、あまり戦場に出なかったのかもしれません。

島津家に静と動があるなら、義久が静で義弘が動だったと思います。動かずともそこに居るだけで安心する存在感は、やはり名君が醸し出す雰囲気ですね。

(xiao)

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