チャンネル銀河で2018年9月17日(月)よりCS初放送を開始する大河ドラマ「八重の桜」。これを記念し、同ドラマの時代考証を担当した歴史作家・山村竜也先生による全4回の新連載「時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』」がスタート!
第1回のテーマは、会津戦争でスペンサー銃を持って戦った綾瀬はるか演じるドラマの主人公・山本八重(新島八重)です。
会津の女銃士
幕末、会津戦争の動乱のなかで、七連発スペンサー銃をかついで鶴ヶ城に籠城し、新政府軍に敢然と立ち向かった女性がいました。会津藩砲術師範役の娘で、のちに新島八重と名乗った山本八重です。
こう書くと、会津藩には女性でも鉄砲の撃ち手がいたのかとか、兵器の面で遅れていたイメージのある会津藩にも実際には最新の鉄砲が配備されていたのかと思われるしれません。しかし、そのどちらも違います。
会津には女性の銃士は山本八重のほかにはいませんし、スペンサー銃は彼女の持つ一挺だけしかありませんでした。八重だからこそできたことだったのです。
八重は、子供のころから体力自慢で、男まさりの少女だったと後年に語っています。
「わたしは子供の時から男子の真似が好きで、十三歳の時に米四斗俵を自由に四回まで肩に上げ下げをしました。又石投げなどは男並にやって居ましたから今の世なら運動選手などには自ら望んで出たかもしれません」(『会津戊辰戦争』所収談話)
米四斗俵は約60㎏ですから、大変な力持ちです。この談話が語られた昭和3年(1928)は、アムステルダムオリンピックで人見絹枝が日本女子初めてのメダルを獲得した年。アスリート体質の八重としては、感慨深いものがあったことでしょう。
そんな八重が鉄砲に親しむようになったのは、もちろん家が会津藩の砲術師範役をつとめていたからにほかなりません。父の山本権八は、西洋砲術の高島流を使う銃士で、藩校日新館で若い藩士たちに砲術を教授していました。
権八が女子である八重に鉄砲の撃ち方を教えることはありませんでしたが、八重は見よう見まねで操作法を会得したといいます。
「私が砲術が好きでございましたのは、家が砲術の師範でございましたから見なれ聞きなれて、門前の小僧習はぬ経を読むと云ふ譬(たとえ)の通りで、大砲の方は習はなくても存じて居ったのでございます」(『新島八重子刀自懐古談』)
もともとお転婆な娘だった上に、家業の関係でいつも身近に銃砲があった。こうした偶然がいくつか重なり、会津の女銃士・山本八重は誕生したのです。
会津戦争で籠城
ただし、それだけならば、八重は実際に鉄砲を撃つことなどなく生涯を終えるはずでした。はからずも幕末の最終段階で、薩摩、長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕府側の会津藩が戦火をまじえることになります。この会津戦争において、八重が歴史上に登場することになるのです。
慶応4年(1868)8月23日、新政府軍が藩境の守備を突破して、会津城下に突入しました。山本家では、男たちはすでに戦場に出ていたため、家に残っていたのは八重と母・佐久、義姉・うらの三人だけでした。
城下に非常を知らせる警鐘が鳴ったら、女性たちには鶴ヶ城に入城するようにとの指示が出されていたので、八重らは危機を避けるために城に向かいました。しかし、ここからが八重の普通と違うところでした。
戦死した弟・三郎の形見の着物を着て、袴をはき、刀も三郎の遺品を腰に差しました。避難のために城に入るのではなく、弟の仇を討つため、敵と戦うために八重は入城したのです。
そして、このとき八重が肩にかついで出た鉄砲が、スペンサー銃でした。
「わたしは常に七発の元込のこれ位の銃を何時でも負うて居りました。まるで弁慶の七道具を負うた様に、腰には弾を百発、家から持って出ました。百発撃って仕舞うまで命があったらよいと思ひまして、百発まで持って参りましたーー」(『新島八重子刀自懐古談』)
スペンサー銃は、1860年(万延元年)にアメリカで開発されたばかりの新式銃で、なんと七発の銃弾が連発できました。当時の鉄砲は、高性能といわれたミニエー銃やスナイドル銃でさえ連発はできず、一発ずつ弾を込めて撃っていましたから、スペンサー銃がいかにすぐれていたかがわかるでしょう。
七発の銃弾は、一発撃つごとに本体下部のレバーを開いて戻すことで薬莢を排出し、次弾を送り込む操作をする必要があったものの、それでも従来の単発銃にくらべれば桁違いの性能を持った兵器ということができました。
ただ、いったん籠城してしまうと、銃弾がなくなった場合に補充ができません。旧式の鉄砲であれば城中でも製造が可能でしたが、スペンサー銃は最新式であるがゆえに銃弾も複雑な構造になっていたのです。
そのため八重は、とりあえず持てるだけの銃弾として百発、これを腰につけて入城しました。あれやこれやを身にまとい、その姿はまるで武蔵坊弁慶のようだったと自ら述懐するほど、ものものしい出で立ちになっていました。
敵に夜襲をかける
籠城初日の23日、八重は昼間は負傷者の看護をしていましたが、夕刻、城内の藩兵たちが敵に夜襲をかけようとしているのを知り、一緒に出撃をと願い出ました。これが認められ、夜になると夜襲部隊に加わって大手門から場外に出たのです。
「それから密と仕度をして大小を差し、ゲベール銃を携へ、夜襲隊と共に正門から出ました。門を出て暗闇を進んで行くと敵の姿がちらほら見えたので、ソレッとばかり斬込みました。無論喊声を揚げずに勝手次第に斬込んだので、敵の周章加減は話になりません。(略)わたしも命中の程は判りませんが、余程狙撃をしました」(『会津戊辰戦争』所収談話)
八重が使ったのがゲベール銃となっているのは、『会津戊辰戦争』の著者・平石弁蔵による誤りと思われます。同書には、八重がスペンサー銃を持っていたこと自体が書かれていないからです。
それにしても、勇敢に夜襲に出て、憎い敵を打ち倒す、八重の行動のなんと痛快なことでしょう。苦しいことばかりだった会津戦争のなかにあって、胸がすくような場面です。
籠城中に八重が場外に打って出たのは、この夜だけでしたが、以後は西出丸の上などから敵を狙撃しました。何人倒したという記録は残っていないものの、八重ほどの撃ち手であれば大いに敵の肝を冷やさせたことでしょう。
奮戦を続けた八重でしたが、一か月の籠城の末、会津は力尽きて降伏を決めました。戦死者も増え、これ以上犠牲を出したくないという、藩主松平容保の涙ながらの決断でした。
9月22日の夜、明日は城を敵に明け渡さなくてはならないというその晩、午前零時ごろに八重はひとり三の丸から外に出ました。そして月明かりに照らされた雑物庫の白壁に、笄(こうがい)で一首の歌を刻んだのです。
「明日の夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ」
見慣れたお城に差す月影を、明日の夜からはどこの誰がながめるのだろうーー。武運つたなく戦に敗れ、城を敵に明け渡すことになった八重の無念がしみじみと伝わってきます。
それでも、女の身ながら勇敢に立ち上がり、最後まで戦い抜いた八重の姿は、悲壮な会津戦争のなかに咲いた、まさしく一輪の花でした。その可憐で誇り高い花は、時が流れても、私たち日本人の心のなかにいつまでも咲き続けているように思えるのです。
大河ドラマ「八重の桜」チャンネル銀河でCS初放送スタート!
放送日:2018年9月17日(月)放送スタート 月-金 朝8:00~
リピート放送:2018年9月17日(月)放送スタート 月-金 深夜1:15~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/yaenosakura/
【お知らせ】
山村竜也先生の最新刊『世界一よくわかる幕末維新』が好評発売中です。ペリー来航から西南戦争終結まで、政治的にも複雑な幕末維新期をわかりやすく紹介。幕末初心者はもちろん、学び直しにもぴったりです。
コメント