【信長に寵愛された小姓:森蘭丸】短すぎる一生と逸話を振り返る

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【信長に寵愛された小姓:森蘭丸】短すぎる一生と逸話を振り返る

戦国時代の武将には「小姓」という役職の若者が従事していました。秀吉の小姓だった石田三成など、その役職を経て名を挙げた人物もいるので一度は聞いたことがあるでしょう。その中でも特に有名なのが、織田信長の小姓だった森蘭丸です。
蘭丸は10代で亡くなったため短い人生でしたが、小説や漫画など多くの創作作品で取り上げられています。それほどまでに人々を魅了する蘭丸とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
今回は、森蘭丸の側近としての活躍や、信長との関係や立場、人物像がわかる逸話などについてご紹介します。

信長の側近として生きた蘭丸

まずは蘭丸の生涯について振り返りましょう。その出自から、彼が信長のもとで活躍することは決まっていたといえるかもしれません。

織田家重臣:森可成の子として生まれる

蘭丸は、永禄8年(1565)信長の家臣で金山城主だった森可成(よしなり)の三男として誕生しました。本名は森成利(なりとし)といい、名前には諸説あります。文書には「乱」「乱法師」が用いられ諱は長定とあるものの、当時の古文書では「成利」と署名されているようです。
武勇に優れた父は信長から厚い信頼を得ており、その跡を継いだ兄・長可(ながよし)も重用されました。蘭丸は天正5年(1577)5月に弟らとともに小姓として召し抱えられ、それ以降は信長の側近として活動。17歳の頃には近江に500石の知行を与えられました。

使者や側近として活躍する

蘭丸の活躍は『信長公記』(しんちょうこうき)にも記されており、信長の息子たちに刀を贈り届けたり、朱印状を与えたりと、使者としての仕事も多くこなしています。母・妙向尼が信長と石山本願寺の和睦に奔走したときは、蘭丸を通して信長に直談判したといわれているため、間接的に大きな役割を担っていたともいえるでしょう。
天正10年(1582)には、甲州征伐に貢献した兄が恩賞として旧武田領を得て領地替えとなったため、兄の所領だった美濃金山城を与えられています。

本能寺の変で明智光秀軍と奮戦!

『豊臣勲功記』の「本能寺ニ森蘭丸討死之図」です。

天正10年(1582)本能寺の変がおこると、蘭丸は1万の光秀軍に囲まれて奮闘しました。しかし明智配下の安田国継により、わずか18歳で2人の弟とともに討ち死にします。こうして最期まで主君と運命をともにした蘭丸でしたが、一説では以前から光秀の謀反を疑っていたともいわれています。もし信長が蘭丸の言葉を信じていたら、本能寺の変は防げていたのかもしれませんね。

蘭丸と信長の関係とは?

信長の小姓だった蘭丸ですが、信長とはどのような関係にあったのでしょうか。二人の関係性に迫ります。

有能な秘書的ポジション

小姓は秘書的な立場で、武将の話し相手になったり身の回りの世話をしたり来客の取り次ぎをしたりと、さまざまな雑務をこなす役職です。また身辺警護の親衛隊役も担っており、いざという時は主君を守らねばなりませんでした。そのため小姓は、幅広い知識や武芸を身につけていたのです。信長に寵愛された蘭丸も聡明な人物だったといわれています。

信長とは衆道関係にあった?

日本の歴史では男色が当前という風潮だったため、小姓と衆道関係をもつことも普通でした。戦場には女性を連れていけないことや、小姓なら有事の際も主君を守れるという理由から、徐々にこうした関係が広がったようです。
蘭丸の場合、信長の着替えを手伝ったり風呂で体を洗ったり、寝所を共にして夜の相手をすることもあったといわれています。

愛刀・不動行光をもらい受ける

蘭丸は信長の愛刀ももらいうけています。ある日、信長は近習たちに向かって、愛刀・不動行光の菊模様の花弁の数を当てた者にこの刀をやろうと言いました。しかし答えを知っていた蘭丸は黙っており、その態度に感心した信長は蘭丸に刀を与えたのです。愛刀を譲るほど蘭丸を信頼していたといえるでしょう。

明智光秀を怒らせた?蘭丸の立場

蘭丸と光秀はともに信長から信頼を得ていた人物ですが、二人の扱いには少し違いがあったようです。蘭丸が特別だったと思われる逸話を2つご紹介します。

光秀の所領をプレゼント!?

近江坂本(滋賀県大津市)に残る坂本城跡と光秀の像です。

あるとき信長は蘭丸に褒美を与えようとしましたが、蘭丸は提示されたものを望みませんでした。そこで信長は、お互いの手のひらに蘭丸がほしがっているものを書き、それが一致したら褒美として与えようと言い出します。すると、見事に内容が一致したのです。蘭丸が欲したのは近江坂本6万石で、それは亡き父の領地だったものの現在は光秀の本拠地になっていました。
この話を襖越しに聞いていた光秀は信長を恨み、これが本能寺の変の動機の1つになったともいわれています。

自ら進んで鉄扇で光秀を折檻した

本能寺の変の約1カ月前、信長は家康の接待役を光秀に命じました。これを喜んだ光秀は贅沢の限りをつくして家康をもてなしましたが、その内容を知った信長は「関東の上客にこのようなもてなしをするなら、朝廷から勅使を迎えるときはどうするつもりだ」と怒って饗宴役を解任してしまいます。
信長は反省の色を見せない光秀を見て、誰か光秀の頭を打つよう命令しますが、誰も名乗りを上げません。そんな中、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を打ったのです。

人物像がわかる逸話

蘭丸は若くして亡くなったため、史料も少なく詳しい人物像はわかっていません。しかし残された逸話からその性格が見えてきます。

爪が1つ足りなくて…

『老談一言記』や『朝野雑載』には、このようなエピソードが載っています。
信長は自分の爪を切った後、それを扇子の上に乗せ、捨ててくるよう蘭丸に命じました。命令通りに爪を捨てにいった蘭丸でしたが、次の間に移動すると爪が9つしかないことに気づきます。そのため蘭丸は、信長の部屋に戻って残りの爪を探したのです。この逸話から、蘭丸は素直で真面目な性格だといえるでしょう。

閉まっていた障子をまた閉めた

『鳩巣小説』には、蘭丸が14歳のころの逸話があります。
あるとき信長は、隣の座敷の障子を閉めてくるよう蘭丸に命じました。しかし実際には障子は閉まっていたため、蘭丸は自ら障子を開け、もう一度音を立てて閉めたのです。これは、開いていると言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長が軽率だと思われてしまうため、周囲に音を聞かせるための行動でした。蘭丸は小姓として細かい配慮ができたようです。

18歳で散った若き武将

信長の小姓として活躍した蘭丸ですが、最期はわずか18歳で討ち死にしました。森氏は信長の父の代からの重臣だったこともあり、父・可成や兄・可長も信長の厚い信頼のもと武功を上げています。本能寺の変がなければ、蘭丸も信長の側近としてさらに多くの活躍を見せたかもしれません。
最期まで主君につき従って散った蘭丸は、小姓としての役目を全うしたといえるでしょう。彼は今も、森氏の菩提寺として知られる可成寺に眠っています。

 

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