【徳川家康の死因の謎】食べ物・病気・戦死?3つの説から真相を探る

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【徳川家康の死因の謎】食べ物・病気・戦死?3つの説から真相を探る

戦国時代に天下を統一し、江戸時代を押し開いた徳川家康。そんな偉業を成し遂げた家康ですが、その死因にはさまざまな説があることをご存じでしょうか。豊臣家などさまざまな大名を滅ぼしたことから、多くの人に命を狙われていたと考えられる家康だけに、その死因に関していろいろな考察がされるのは当然かもしれません。江戸幕府の初代将軍であり、東照大権現という神号まで持ち、日光東照宮にまつられている家康の死因は何だったのでしょうか。今回は、その死因として考えられている3つの説についてご紹介します。

家康の死因:揚げ物説

天ぷら
江戸時代には高級料理だった天ぷらは、家康の好物でした。

徳川家康の死因として語られる最も有名な説は、揚げ物(天ぷら)を食べ過ぎたことといわれています。家康の死因といえばこの説が広く唱えられており、家康が天ぷらで亡くなったと耳にする方も多いのではないでしょうか。しかし、この説は信ぴょう性が低いといわれています。家康の天ぷら死亡説について見ていきましょう。

高級品だった天ぷらの食べ過ぎ

この時代、素材を油で揚げた天ぷらは高級料理でした。家康は平均寿命の短かった当時において70歳を超えるまで生きた長寿の人でしたが、高齢になっても油ものを好んだことでも知られています。戦いの中で起居してきたこともあり、天下統一後は若いときに食べられなかったものを好んだのかもしれません。一説では、鯛の天ぷらを食べた家康が食中毒を起こして亡くなったといわれています。

有名な説だが、信憑性が低い

この有名な家康の天ぷら死亡説ですが、実は信ぴょう性が低いといわれているのです。その理由として、家康が天ぷらを食べたのは亡くなった元和2年(1616)4月17日の3カ月も前だったことから、食中毒としては時間が掛かりすぎていることが挙げられています。また後述にある、死亡前の身体症状などから考えても、天ぷらによる食中毒が死因とは考えにくいのです。

家康の死因:胃がん説

CT画像を見る医師

家康の死因として、天ぷら死亡説に代わり最も有力視されているのが胃がんです。現代でも恐ろしい病気として挙げられる胃がんですが、なぜこの病気が有力視されているのでしょうか。それには、江戸時代の歴史文書に記された家康の病状が重要な証拠になっています。家康の胃がん死亡説について見ていきましょう。

「徳川実記」が物語る容態

江戸幕府が編さんした歴史書として『徳川実記』という書物がよく知られています。この書物は初代家康から10代家治までの各将軍の治績が記述されており、歴史考察などにも利用されている貴重な資料です。この『徳川実記』では死亡前の家康の健康状態が詳しく解説されており、そこから家康の死因が推察できるのです。それによると家康の病状は、どんどん痩せていき、吐血、黒色便がみられ、お腹に手で触って確認できる程の大きいしこりがある、といったものだったそうです。

最も有力視されている説

これらの『徳川実記』に記載されている家康の症状は、胃がん患者に多くみられる症状です。吐血や黒色便は胃がんなどの消化器に起こるがんによって、消化管の中で出血した場合にみられる症状であり、胃のあたりに硬いしこりがあるのは進行した胃がんにみられる病気の状況です。家康に起きたこれらの症状が胃がんと関係していることから、歴史家の間では家康の死因は天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんではないかと考えられており、この説が最も有力といわれています。急速に痩せていったことも、がんの影響で十分に養分を吸収できなかったことと関係がありそうです。

家康の死因:関ヶ原で死亡説

家康の死因として他に挙げられているのが、関ヶ原の戦いで死亡していたという説です。この説には、影武者の存在が欠かせません。豊臣家をはじめ、さまざまな戦国勢力を討ち滅ぼした家康ですので、滅亡した家の血族や家臣から恨まれていても不思議ではなく、影武者を立てていてもおかしくはないですよね。ここからは第3の説である、関ヶ原で死亡説について見ていきましょう。

影武者が毒殺された?

武田信玄
武田軍を率いた武将・武田信玄にも影武者がいました。

関ヶ原の戦いで本物の家康は戦死しており、その後は影武者がこの大役を担っていたとする説で、戦も終わり家康をどうしても生かしておきたい理由がなくなったことから、影武者を毒殺したとされています。

この説が生まれた理由として、一部の戦国武将は影武者を用意していた背景があります。これは忍者などによる暗殺対策や、敵勢力の目をかく乱するためのものです。例えば、その強さを恐れられた武田軍を率いる武田信玄が、弟やよく似た家臣を影武者として複数人揃えていたことなどが知られています。家康も例外ではなく、大坂の陣の際、三男で後の2代将軍・徳川秀忠とともに豊臣家を滅ぼしますが、このときに陣を率いていたのは家康本人ではなく影武者だったのではないかという説が存在しています。第3の説では、この影武者が毒殺されたという話が伝えられているのです。

現在では否定されている

しかし、現在はこの第3の説は否定されています。影武者が殺されたという説も、入れ替わった時期や入れ替わりを示す証拠などが一切見つかっておらず、歴史的事実として確認できないからです。また、家康が松平元康と名乗っていた三河時代から、影武者と入れ替わったであろうといわれるさまざまなタイミングが指摘されていますが、これらの指摘についても、現代では歴史的考察でそれぞれ否定されています。

長寿だった家康

当時では長寿として知られた家康は、健康にとても気を使っていました。三河国に生まれ、今川家での人質という苦しい立場から天下を統一した家康。今川が滅びた後も織田信長や豊臣秀吉の風下に立ち続けた彼は、待つことの重要性を知っており、健康は大切な資源だったのです。その甲斐もあり家康は、慶長年間に豊臣政権を滅ぼし、天下を統一するという日本史上でも大きな偉業を成し遂げました。死因は何であれ、享年75歳は立派に天寿を全うしたといえるでしょう。

 

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