【本能寺の跡に明智風呂!】ちょっとマニアックな明智光秀ゆかりの地へ(その1・京都編)

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戦国時代最大の謀反劇「本能寺の変」で主君・織田信長を討った明智光秀。その後、羽柴秀吉に敗れて「11日天下」に終わったが、間違いなく日本の歴史を動かした傑物だった。その光秀ゆかりの地が、畿内には意外なほどたくさん残されていることをご存じだろうか?

上の地図でその主な場所を示したが、彼が拠点として活躍した畿内には、特に多くの史跡がある。百聞は一見にしかず。ということでまずは京都から。京都といえば、やはりここから訪ねるべきだろう。

1.旧・本能寺跡(京都市中京区元本能寺町)

今の京都駅から、ちょうど3㎞ほど北。徒歩で30分ほどのところに、その名も「元本能寺町」という町がある。そこに「本能寺跡」の碑が建つが、およそ観光客が来ないような静かな住宅地だ。今から400年ちょっと前、光秀はここで主君・信長を討ち果たした。まさに歴史が動いた現場である。

碑があるのは「本能特別養護老人ホーム」の敷地内で、厳密には本能寺の南端にあたる場所という。実際の本能寺があったのは道路を挟んだ少し北、「光岸寺」というお寺のあたりがそうだったらしい。とはいえ、当時の面影を偲ぶものはない。さらに北へ行くと「本能寺町」と地名が変わり「本能公園」があった。何の変哲もない公園で、地元の子供たちが遊んでいた。観光客の姿はないため、歴史に思いをめぐらすには良い環境だ。

2.事件後に移転・復興された、現在の「本能寺」へ(京都市中京区下本能寺前町)

「本能寺の変」によって、当時の本能寺は無惨にも焼け落ち、秀吉の時代に東の寺町通りへ移って再建された。それが現在の本能寺だ。京都市役所のすぐ南にあり、法華宗大本山として参拝客や僧侶など、たくさんの人々が訪れている。

境内、本堂の右奥に三男・信孝が建てた「信長廟」があり、参拝する人々の姿が絶えない。その他に宝物館があり、信長が本能寺を宿舎にする際に残した「禁制朱印状」をはじめとする遺品が展示されている。ここに残る信長の肖像画はヒゲがない独特のもので、一見の価値ありだ。信長を偲ぶなら、旧・本能寺と合わせて、現在の本能寺参拝も忘れないようにしたい。

3.祇園白川に、ひっそり建つ「明智光秀 首塚」(京都市東山区梅宮町)

鴨川を渡り、東山の八坂神社・知恩院のほうへ向かう。知恩院の古門から少し北へ行くと、白川の両脇に柳並木が続く通りに出る。有名な「祇園白川」だ。地元の人々が行き交う、ここも昔ながらの情緒に満ちた住宅地。その一角、細い路地を進んだところに寂しく建っているのが「明智光秀の首塚」と伝わる供養碑と祠だ。

「山崎の戦い」で秀吉に敗れた光秀は、坂本城へと逃げる途中、小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りにあって落命。伝承によれば、その首は介錯した家臣が持ち去ったともいわれるが、光秀の首は秀吉に届けられ、胴も発見されてこの近くの粟田口刑場(現在の首塚より数百メートル東、今の地下鉄・蹴上駅のあたり)にさらされた。

その後、近くの人家の裏に他の首と一緒に埋められ、江戸時代中期に光秀の子孫が塚を築いたという。この祠の中には小さな光秀像がある。意外なほどの質素な祠だが、ひそかな供養には、このぐらいのほうが良かったのだろうと感じ、そっと手を合わせた。

首塚の管理は、その後も周辺の地元民が行なっていて、現在の管理人は和菓子店「餅寅」のご主人と女将さん。誠実な人柄のご夫妻。元気な女将さんが勧めるのがこの店の名物、その名も「光秀饅頭」。黒糖の皮に粒あん、抹茶の皮に白あんの2種類あり、桔梗紋の焼印が入って1個150円。ふっくらした皮に、素朴な甘さの餡がおいしい。

4.妙心寺に、いまも残る「明智風呂」(京都市右京区花園妙心寺町)

続いては、東⼭からだいぶ離れるが、右京区の花園にある「妙⼼寺」へ。46 の塔頭を持つ臨済宗の禅寺で、京都を代表する古刹。⼀⾒、光秀と何の関係もなさそうだが、境内にある法堂(上写真)内に光秀の位牌が置かれ、同じく境内に「明智⾵呂」と呼ばれる重要⽂化財の浴室があるのだ。

法堂内には入ることができないが、「明智風呂」は通常、1日何度か行なわれるガイドツアー(本堂で受付=500円)に参加して、内部を見ることができる。もちろん、入浴はできないが・・・。現代のサウナに近い、いわゆる「蒸し風呂」で、当時の風俗が垣間見られる、大変に貴重なものだ。

なぜ「明智風呂」なのかといえば、この寺には光秀の叔父・密宗がおり、彼が光秀の菩提を弔うため、天正15年(1587)に建てたものだという(江戸時代はじめに改修)。光秀の死から5年後のことだ。寺の言い伝えによると「(逆賊の)汚名を洗い流す」ためであったという。

風呂といっても、今のようにたっぷりのお湯が使えるわけでもなく、火を起こして焚く蒸し風呂。当時は僧侶たちの修行の一環でもあった。毎年6月14日(光秀の命日)には「施浴」も行われたという。「施浴」とは僧侶が人々に風呂を開放する風習。当時は家庭に風呂などなかった。貴重な湯を使う人々は故人に感謝し、位牌に手を合わせ、冥福を祈るという意味があったようだ。

光秀は意外にも風呂好きだった?

また、生前の光秀と親しかった公家の吉田兼見が書いた日記『兼見卿記』(かねみきょうき)によれば、光秀は兼見の自宅へ風呂を2度ほど借りに来たことがあったという。両者の仲が良かったことを窺わせるが、光秀は意外にも風呂好きだったのかもしれない。

5.数百年を経て、天井裏から発見された光秀の位牌(京都市北区寺町 天寧寺)

最後に、もうひとつ耳寄りなスポット、京都市北区寺町にある天寧寺(てんねいじ)を紹介したい。残念ながら一般の見学はできないが、この寺は平成10年(1998年)に、ちょっとしたニュースになったところ。本堂屋根の葺き替え工事をしたところ、天井裏からなんと光秀の位牌が見つかったのだ。

もともとは福島県の会津若松にあった寺で、天正年間に伊達政宗の侵攻で焼かれ、京都へ移転された曹洞宗寺院。当時、豊臣政権下で会津は上杉景勝の領地だった。移転の際に上杉家の家老・直江兼続が寄進したことから、兼続の位牌があることは知られていた。

現在、新たに発見された光秀の位牌には確かに光秀の戒名「明智日向守 秀嶽宗光大居士」が刻まれている。本堂内に兼続の位牌とともに安置されている。また、その横には徳川家康の位牌もある。「関ヶ原の戦い」後、上杉家も徳川政権に忠誠を誓ったので、両者の位牌があってもおかしくはない。しかし、なぜ光秀の位牌があるのだろうか。

住職に聞いても、この位牌と同寺を関連づける史料がないため、由来は不明とか。秀吉政権下ではもちろん、徳川の時代になっても光秀は長らく「逆賊」「謀反人」として扱われていたであろうから、死後に光秀の縁者が、ひそかに屋根裏に置いて冥福を祈ったのかもしれない。まだまだ紹介しきれないが、畿内を中心として光秀ゆかりの寺院は数多い。彼の遺徳を慕うひとは、それだけ多かったのだろう。
※天寧寺は通常非公開です。

続きはこちら:【西教寺の寄進状で分かる人柄!】マニアックな明智光秀ゆかりの地へ(その2・近江編)

文・上永哲矢

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