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【 唐橋を制する者は天下を制す 】「急がばまわれ」の由来、瀬田の唐橋は超重要地点だった

【 唐橋を制する者は天下を制す 】「急がばまわれ」の由来、瀬田の唐橋は超重要地点だった

大河ドラマ「真田丸」では、大坂の陣が始まるに当たり、籠城すべきか打って出るべきか揉めていましたよね。そのとき幸村(信繁)が提示した策に、「瀬田と宇治の橋を落とせば秀忠軍は京に入れない」という言葉がありました。2つの橋を落とすだけで京都への道が閉ざされるとは、そんなに大事な橋だったのでしょうか?

「急がば回れ」の由来となった!?

信繁が言った「瀬田の橋」とは、滋賀県大津市、琵琶湖の南端の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」のことです。京都の宇治橋、山崎橋とともに日本三名橋・日本三大橋の一つとされています。

江戸時代に「武士(もののふ)の やばせの船は 早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」という歌が連歌師の宗長によって詠まれ、これが「急がば回れ」という諺の由来となったといいます。

東国から京へ入るには、矢橋(やばせ)から大津へと琵琶湖を舟で突っ切るのが最短とされていましたが、ここには比叡おろしという強風が吹きつけるため、舟が遅れてしまうことがありました。そのため、琵琶湖の南端の瀬田を回って行けば日程が狂うことはないので、距離が遠くても「急がば回れ」ということなんだそうです。ただ、この橋がないと大変なことに・・・。

数々の戦乱の舞台となった要衝

瀬田の唐橋

「京都へ入るにはこの橋がなければほぼ無理だった」

瀬田の唐橋の歴史は古く、日本書紀にすでに記述が見られます。そして、「唐橋を制する者は天下を制す」と言われるほどの軍事・交通の要衝でした。

琵琶湖を渡るなら比叡おろしの影響は避けられず、瀬田と宇治の間は急峻な山々に囲まれていて大軍が進むには困難でした。瀬田橋は明治22(1889)年までは瀬田川唯一の橋であり、交通の要だったのです。ここがなくなれば、特に軍隊は身動きが取れなくなってしまうのでした。

時の権力者や戦国武将はその点を心得ており、武田信玄などは死の床にあっても「瀬田橋に我が風林火山の旗をたてよ」と命じていたほどなんです。ここさえ抑えれば、特に東から攻め上る方には京都を取ったも同然だったのですね。
このため、瀬田の唐橋は古代から数々の戦いの場となってきたわけです。

天下に轟く決戦の舞台

671年、天智天皇の皇子・大友皇子とその叔父である大海人皇子との間に皇位継承を巡る戦いが起きました。これが壬申の乱です。東国に逃げていた大海人皇子は地方豪族を味方につけ、大友皇子がいる近江京へ攻め込みました。
古代日本最大の内乱の最終決戦の場は、まさに瀬田の唐橋だったのです。結果、大友皇子は敗れ自死し、大海人皇子は天武天皇となったわけですね。

また、治承・寿永の乱(1183・1184年)では、源義仲と平氏、源義経と義仲の戦場となりました。1221年の承久の乱では、後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方がここを挟んでの戦闘となっています。

さらに、天正10年(1582)年の本能寺の変の際にも瀬田の唐橋は登場しました。元々、織田信長が天正3(1575)年に現在の位置に唐橋を架け替えたのですが、本能寺の変が起こると、信長の部下・山岡景隆によって焼き落とされます。これは、明智光秀が安土城へ攻め込むのを阻もうとしたためでした。
その後、豊臣秀吉が再建しています。昭和54(1979)年にコンクリート製の橋となりましたが、昔からの擬宝珠は受け継がれています。

「受け継がれてきた擬宝珠には、架け替え工事の記録が刻まれている」

「受け継がれてきた擬宝珠には、架け替え工事の記録が刻まれている」

他にも瀬田の唐橋には、平将門を討った豪傑・藤原秀郷によるムカデ退治の逸話も伝わっています。
琵琶湖の龍神一族に頼まれて、近くの三上山に住む大ムカデを退治するというものでした。

このように、瀬田の唐橋は古くから人々に知られた要衝だったんですね。地形を知って歴史を読み解くともっと面白くなるということを、改めて実感しました。

(xiao)

参照元
「滋賀文化のススメ」

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