世界中の歴史を振り返ってみると、いつの時代にも”悪女”と呼ばれる女性たちが登場します。
日本で歴史上の悪女といえば、北条政子や日野冨子がよく挙げられますよね。中国では武則天(則天武后)、韓国ではチャン・ヒビンなどが有名です。
今回はそんな歴史上の”悪女”たちの中から、その残虐さで有名な“中国三大悪女”を紹介したいと思います。
呂雉(りょち)
呂雉(りょち、?~紀元前180年)は、「項羽と劉邦」で有名な漢王朝の初代皇帝・劉邦の妻。現在の山東省単県に名士の娘として生まれた呂雉は、貧しい役人だった劉邦に嫁ぎ苦労しながら1男1女を育てました。
秦王朝滅亡後の紀元前206年から約5年間にわたり繰り広げられた「楚漢戦争」で項羽を破った劉邦により、新たな統一王朝「漢」が成立。夫を支え続けた呂雉は皇后(=呂后)となります。
劉邦が逝去し、息子が二代皇帝・恵帝として即位すると、呂雉は次第にその権力を振るい始めます。まず呂雉が行ったのは、皇帝の寵愛を受けていた側室・戚夫人への復讐でした。戚夫人を投獄して奴隷にすると、地方に赴任していた戚夫人の息子を呼び出して毒殺、さらに、戚夫人の手足を切り落とし、両目をえぐり、薬で耳と喉をつぶすと、便所へと放り込み「人豚」と称して見世物にしたそうです。かつて中国の便所は排泄物を豚に処理させていたそうですが、あまりに残虐な仕打ちですね・・・。
皇帝の後見人として権力を振るい続けた呂雉でしたが、最期は病によって死去。権力を掌握していた呂氏一族は、劉邦の遺臣らに皆殺しにされてしまいました。
西太后(せいたいこう)
西太后(せいたいこう、1835~1908年)は、清の第9代皇帝・咸豊帝(かんぽうてい)の妃で、第10代皇帝・同治帝(どうちてい)の母。咸豊帝が亡くなり息子の同治帝が即位した後は、皇帝の背後から政治を操り、74歳で亡くなるまで事実上の皇帝として中国全土を支配しました。
ちなみに「西太后」とは、咸豊帝の正室であった「東太后」と対になる名称で、同治帝が即位したときに皇太后となったことで「西太后」と呼ばれるようになったのだそうです。
彼女の残虐さを伝えるエピソードで最も有名なのは、1900年に起こった「義和団の乱」で第11代皇帝・光諸帝(こうしょてい)の側室であった珍妃を、生きたまま井戸に投げ落として殺したというもの。光諸帝の寵愛を受けていたことに加え、諸外国の軍勢に迫られて北京から脱出することを批判したために、気性の激しかった西太后の逆鱗に触れたと言われています。
その他にも、「正室である東太后を毒殺した」「咸豊帝の寵愛を受けていた麗妃の手足を切断し、生かしたまま瓶に詰めた」「自らが死ぬ前日に光緒帝を毒殺した」といったエピソードが伝わっていますが、これらは西太后=悪女のイメージによって作られた悪評なのだとか。(麗妃の話を聞いた事がある方も多いと思いますが、これは映画「火焼円明園」のワンシーンが元ネタの完全なフィクションです)半世紀にも渡り女性が権力を振るい続けたことを考えると、こうした悪評も本当なのでは?と感じてしまいますよね。