日本がホスト国となった2016年の第42回先進国首脳会議、通称「伊勢志摩サミット」の開催地として一躍脚光を浴びた三重県の賢島。リゾートホテルが立ち並ぶこの島が会場に選ばれた最大の理由は、本土をつながる橋が二つしかなく、警備がしやすいということでした。
志摩地方の沿岸部は入り組んだリアス式海岸で、大小無数の離島があります。また内陸部は平地が少ない僻地だったため交通インフラの整備も遅れ、外界と隔絶された「陸の孤島」が昭和初期まで多くあったそうです。
そんなところには大抵、昔ながらの独特の風習が失われないまま残っていたりします。
三重県鳥羽市の指定民俗文化財でもある答志島(とうしじま)の「寝屋子(ねやこ)制度」もその一つです。
答志島に伝わる指定民俗文化財・寝屋子制度とは?
答志島は、水軍の将として有名な鳥羽城主・九鬼嘉隆が眠る島としても有名です。関ヶ原の戦いに敗れた九鬼嘉隆が自刃した場所であり、彼の首と胴は、島内にある塚に葬られています。
寝屋子制度とは、いわゆる〝若い衆〟と呼ばれる青少年男子が、親元を離れて集団生活する「若者組」の一つの形態で、かつて日本全国のムラで一般的に見られた風習です。
数えで15歳前後の男子たちは、「寝屋親」と呼ばれる比較的年齢の近いムラの大人に預けられ、「寝屋」という場所に出入りしながら漁業の技術や祭礼の伝統、規律などを学び、漁村社会の一員となっていきました。
かつては志摩地方一帯でみられたといいますが、公教育の普及やサラリーマン化などが進んだことで次第に廃れ、現在も残っているのは答志島だけのようです。
ただし、誰でも寝屋親になれたわけではなく、若者をまとめる人望とリーダーシップが求められ、どういうわけか独身者は選ばれなかったようです。
そして親とともに若者をしつけ、問題を起こしたときは解決に導く手助けをし、縁談をまとめる役割なども担っていました。
寝屋子は結婚すると抜けるのが習わしですが、その後も「寝屋子兄弟」として互いに冠婚葬祭の世話をするなど、生涯にわたって強い絆で結ばれ、地域を支えていきました。現在の教育システムと比べると、はるかに実用的かつ効果的な人材育成の仕組みだったといえるでしょう。
寝屋子制度が始まった由来
現在、答志島にある寝屋は10軒ほど。一つの組は中学校卒業後の男子5~10人で組織されているようです。
さすがに日常生活を共にすることはなくなり、月に数回の頻度で寝屋に集まっているとのこと。
寝屋子制度がいつごろ始まったのかについては諸説あり、中世に志摩地方で勢力を伸ばした九鬼水軍が船の漕ぎ手を素早く集めるために利用したともいわれています。
しかし、寝屋子制度のような若者組が確立されたのは身分や居住場所が固定化されていった江戸時代以降というのが通説で、九鬼水軍が活躍した時代とはずれています。
ただ、平安時代から近世にかけて水軍を構成したのは、武装集団としての海賊衆または自警組織、そして同時に平時は漁業などを生業とする〝海の民〟でした。
そんなわけで志摩や瀬戸内など沿岸漁業の盛んな地域には、水軍の歴史が刻まれているのです。ちょうど農耕社会から武士団が発生したように。そして水軍も漁業も多くの人々の協力が必要で、操船技術などの習得は経験者の指導が不可欠でした。
海の民のそんな事情が長い歴史の中で寝屋子制度を形作っていったのでしょう。