百姓から出世し天下人にまでなった豊臣秀吉はまさに成り上がりの典型ですが、戦国時代には他にも成り上がった武将が何人もいました。
武士の家系でなくても、才能次第でのし上がれるという希望を抱かせた時代。秀吉のほかにも立身出世を果たした武将をご紹介しましょう!
美濃の蝮は油売り!?斎藤道三
「美濃の蝮」と恐れられ、織田信長の義父でもあった斎藤道三に関しては、一介の油売りから成り上がったという説がありました。
武士の家系に生まれたという道三は、11歳で京都の妙覚寺へ預けられます。その後還俗し松浪庄五郎と改名すると、油売りの行商で成功しました。妙覚寺時代の縁故により美濃へ入り有力者たちと交流を持つと、やがて長井長弘の家臣として西村勘九郎正利と名乗ります。
道三はとてもうまく立ち回り、美濃の守護一族土岐頼芸の信頼を得ました。そしてその家督争いの混乱の中でかつての主・長井長弘を殺害し、長井新九郎規秀となります。しかも守護代の斎藤利良の死に乗じて斎藤家を掌握し、斎藤氏を名乗るようになり、ついには美濃全体を手に入れてしまったのです。
実に巧妙に美濃一国を手に入れた道三ですが、晩年は息子・義龍と不和になり、やがて攻め殺されてしまいました。
その後、「六角承禎書写」の発見により、道三の国盗りは道三の父とされる新左衛門尉との2代で行われたものであるらしいことがわかりました。
とはいえ、道三が成り上がって一国の主となったことには変わりありません。
猿楽師は財テク家!大久保長安
江戸幕府で勘定奉行、老中にまでなった大久保長安は、猿楽師の息子でした。
父が武田信玄お抱えとなると、長安は信玄に見出されて家臣として仕えるようになります。特に鉱山開発に才能があり、税務などを担当しました。
武田氏が滅亡してからは徳川家康の元で内政に実力を発揮し、関東の整備で中心的存在となりました。江戸幕府で勘定奉行となると、家康の直轄領を実質的に切り盛りし、「天下の総代官」とまで称されたのです。ちなみに、世界遺産の石見銀山にも関わっていますよ。
しかし、鉱山採掘量の低下に伴い家康の寵愛は薄れ、失脚します。
死後、生前の彼が不正蓄財を行ったとして、息子たちは処刑されてしまい家は途絶えました。
商人から大名へ!小西行長
キリシタン大名・小西行長は、堺の商人の息子として生まれました。
そして魚屋九郎右衛門という商人の養子となりますが、そこで宇喜多直家の所に出入りしていたところ、才能を見込まれて武士となったのです。
その後、羽柴秀吉にも気に入られて臣下となり、九州征伐後には九州宇土に20万石の領地を得ました。これは商人から大名への大出世でした。
しかし関ヶ原では西軍に属し、敗戦によって討ち首となってしまいました・・・。
百姓の子から武田四天王へ、高坂正信(春日虎綱)
高坂正信は甲斐国の百姓の子として生まれました。
父の没後身寄りがなくなり、信玄に召し抱えられたそうです。やがて足軽大将となり、信玄の最も信頼する武将として数々の戦いで功績を挙げ、武田四天王のひとりに数えられるようになりました。川中島の戦いや三方ヶ原の戦いにも参戦しています。
信玄の死後も、衰退する武田家を支えましたが、病で亡くなりました。
いかがでしたでしょうか。
この並びだと北条早雲はどうしたのか、とお思いかもしれませんが、彼は室町幕府に仕えた伊勢氏に連なるという説が確定したようです。そのため、出自不詳ではなくれっきとした武士の家系ということで、成り上がりから除かせていただきました。
大名にまでなった人物は、それだけの才能に溢れていたのでしょう(例外はいますが)。
成り上がりで天下一まで上り詰められるところも、戦国時代の人気の理由でしょう。
(xiao)