幕末明治期の留学生に、信州上田藩の殿様兄弟がいたのはあまり知られていません。
この留学は日米史に変わった足跡を残すこととなりました。
信州の上田藩は開明派の松平忠固が治めていましたが、保守派の井伊大老ににらまれて国元に蟄居させられていました。
しかし西洋に学ぶことの重要性に気付いていた忠固は、長男・忠礼と次男・忠厚の二人に留学を勧めます。
二人は幼い頃から頭脳明晰で周囲の期待も高く、兄の忠礼が23歳、忠厚は21歳の時に渡米することになりました。
二人はアメリカのラトガース大学に留学します。英語研修課程を終えた忠礼は理学部、忠厚は工学部に入学しました。
ちなみにこのラトガース大学は、パブリック・アイビーとも呼ばれる評価の高い大学で、幕末以降10年間で日本人留学生は40人以上いたそうです。
そんななか、物怖じしない若様タイプの弟・忠厚は学生代表のような役割にも選ばれ、万国博覧会でアルバイトもしたとか。兄・忠礼も成績優秀者な卒業生として表彰されているので、兄弟ともに優秀だったようです。学位取得後は帰国する手はずでしたが、ここで大問題が持ち上がります。
弟の忠厚が行方をくらましてしまったのです。しかも現地女性が一緒でした。
アメリカ人女性との国際結婚第一号!
お相手の女性の名前はカリー・サンプトン。
大学のそばにある本屋の娘で、父は退役した陸軍大将だったそうです。学生の世話をしていたのが縁となったようで、1879年に忠厚はカリーの姉の家で正式に結婚式をあげます。新渡戸稲造の国際結婚より11年も早いので、アメリカ女性相手では忠厚が第一号だといわれています。
しかしこの結婚は、日本の親族からは総スカンを食らいます。それは単に「アメリカ人女性が相手だから」ではありません。
忠厚にはすでに妻子がいたのです。
兄の忠礼は上田藩最後の藩主となり、忠厚は形式的に養子に行って、信州の更級郡に領地五千石を引き継いでいました。
つまり養子先にも迷惑をかけ、一族の体面に泥を塗り、責任も何もかもほっぽり出して異国女性と駆け落ちしたわけですね・・・。
忠厚がのちに一時帰国を考え、兄に謝罪の手紙を書いたことがありました。
しかし忠礼は「勝手に逃げて家の体面にも泥を塗っておいてどういうつもりだ。帰りの旅費も自分で工面しろ」との意味合いの返事を出します。後年、カリーへの援助も拒否しているので、相当怒っていたようです。
アメリカに根を下ろした忠厚
しかしながら二人は仲睦まじく、忠厚が土木技師として民間会社に就職すると、カリーも技術を勉強するなどし、忠厚を支えます。
忠厚は新しい三角測量器具の開発や、数学の書籍を出したりと、その活躍は新聞にも掲載されました。
新聞には「明るく謙虚な東洋のジェントルマン」「見かけや態度が上品」「優秀な技術者」といった評価が並び、やはり殿様としての育ちの良さは伝わっていたようです。
当時、なかには「日本人に負けた」などと煽る新聞もあったようですが、忠厚はNYのブルックリン橋の一部の設計を担当したり、アメリカ各地の鉄道敷設事業に関わるなど活躍します。1884年にはペンシルベニア州の公式エンジニアに任命され、日本人初の公職者となったのです。
二男一女の子供にも恵まれ、長男は故郷の太郎山にちなんで太郎、次男は自分の幼名と同じ欽次郎、長女はフミエという、なんとも日本風の名前をつけました。このように幸せな家庭を築いていた忠厚ですが、37歳の時に倒れてそのまま急逝。再び日本の土を踏むことは叶いませんでした。
死後、「忠厚は日本のプリンスだった」と評判になり、現地の歴史協会の手で住居なども保存されているとか。
忠厚の死後、妻・カリーと子供たちは?
残された家族の人生も、波乱万丈だったようです。
カリーは知り合いの日本人貿易商と再婚して子供をもうけますが、のちに夫から捨てられ、それからはずっと姉たちと同居して暮らしたそう。
子供たちはというと、長女・フミエは一歳半で病死、長男・太郎はフィリピンに出征して現地で結婚し「マツダイラ・ホテル」を経営していたそうです。
次男・欽次郎はサーカス団で働いたりもしたようですが、のちに大手デパートの会計主任となります。
人柄も良かったようで、引退後はメリーランド州のエドモンストン市で日系人初の市長に選ばれたそうです。
忠厚と周りの人たちの人生は確かに波乱万丈だったと思いますが、日本での身分を捨ててもアメリカで才能を認められた忠厚。
その功績はもっと知られてもいいのではないでしょうか。
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