日本に火縄銃が伝来すると、鉄砲に熟達した武芸者も出てきました。その中でも稲富祐直は欠かせない重要人物です。
祖父・祐秀から鉄砲の手ほどきを受け、長じると独自の砲術を編み出し稲富流砲術の開祖として「天下の砲術師」と呼ばれるまでになりました。
針に刺した蚤を撃ち抜けた、目隠ししても命中させた、夜中にみみずくを鳴き声を頼りに撃ち落とした・・・など、圧倒的な力を示す話が残ります。
後年は幕府お抱えで流派も隆盛し、博物館などの「砲術の秘伝書」の類も稲富流のものが多くあります。出来栄えも当時としては豪勢です。
稲富流の極意!祐直の逸話
祐直は、家康の四男で尾張国清洲藩主の松平忠吉にも砲術を教えた逸話があります。忠吉は藩主ながら免許皆伝を受けるほど鉄砲に熱心でした。
ある日祐直の弟子と狩りに出かけると、その日はなぜか鳥たちが神経過敏で、狙いをつけただけで逃げ出します。
稽古にならんと忠吉が困っていると、同行の弟子が「こういう方法があります」と村人のようにして文箱を鉄砲にくくり何気なく歩いてみせました。これには鳥も逃げ出しません。
そのまま通り過ぎるように見せながら、背中越しに鳥を撃ち抜いたのです。
忠吉は驚嘆して祐直を呼び出します。
「免許皆伝のはずなのにあんな秘伝教えてもらってない、まだ何か隠しているのではないか」と。
不満げな忠吉を祐直はこう諭したといいます。
「あれは秘伝ではなく、言うならば工夫です。習った秘伝をその場にどうやって合わせるかが大事なのです。秘伝が『芸』とすれば工夫は『術』にあたります。技術のまとまりである芸をどのように使っていくかが術であり、工夫であり、肝心なところです。その場のありようは千差万別であらゆる工夫を教えるのは不可能です。学んだ技術をどのように工夫していくか。それが修行なのです」
この話だけならさすがは名人、奥が深いと感心してしまいます。が、実は祐直には否定的な話が多いのも特徴なのです。
ガラシャを見捨てた?祐直、一生の不覚
その代表例が、慶長5年(1600年)に大坂屋敷で細川ガラシャ夫人の警護を放擲して逃亡したという話です。
石田三成はガラシャ夫人を人質にして細川家を味方に付けようとします。しかし夫人は囚われになるのを嫌がって、家臣に自分を殺すよう命じたのです。夫の細川忠興は前もって屋敷に警護をつけ、祐直も射撃の腕を振るうのを期待されていました。しかし、その祐直はというと、襲撃前に脱出していたといわれています。夫人に殉じた者も多かったので、忠興は激怒しました。
弟子が脱出させたとか、才を惜しんで逃がされたなどとも言われますが、忠興は追っ手をさしむけて各地に祐直を召抱えないよう奉公構えを回します。
最終的に徳川家康や井伊直政の庇護下に入り、やっと赦してもらえたといいます。
元々祐直は丹波守護の一色家に仕えていて、細川家は主家を滅ぼした家柄です。殉じる義理は見いだせなかったのかもしれませんね。
また、一番ネガティブなのが朝鮮出兵での虎狩りの話です。
祐直が立花家の十時三弥と一匹の虎を狙って競べ打ちを行ったところ、なんと負けてしまったというのです。しかも祐直の方が距離が近く、十時は鉄砲の初心者だったといいます。
これなど「天下の砲術師」の名が危なくなる話ですが、当時の鉄砲は質が悪かったというのも影響している・・・かも?
祐直の名誉のために言っておくと、勇敢な話ももちろんあります。
元が丹後弓木城主の家柄といわれ、その籠城戦では弟子とともに巧みな鉄砲の運用で多勢の細川方を何度も撃退、忠興に和議に応じさせました。
ガラシャ夫人の時もこのぐらい頑張っていれば、もう少し印象も良かったかもしれませんね・・・。
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