歴人マガジン

【世界最強・蒙古軍が襲来!】日本の武士団は、フビライによる元寇に「神風」無しでも勝っていた!?

1,260万平方キロメートル。何を意味する数字かといえば、これはチンギス=ハン(ジンギス・カン)が作り上げたモンゴル帝国が征服した領土の総面積とされる数字である。

その広さと来たら、アレクサンダー大王、ナポレオン、ヒトラーなども遠く及ばない。東は太平洋から西はカスピ海までを支配下に置いた、まさに世界最大の帝国。その軍勢もまさに最強。残酷かつ精強な騎馬兵の集団はユーラシア大陸を席巻した。

モンゴル帝国は、初代のチンギス=ハン以来、5代にわたって繁栄。チンギスの孫・フビライ=ハン(クビライとも呼ぶ)は1264年に国号を「元」と改めた。それから10年後の1274年、ついに日本へと、その魔の手を伸ばしてきたのである。

「国史画貼 元寇の戦ひ」より

太平洋戦争以前に日本が他国から攻撃を受けた唯一の戦い「元寇」。1274年の第1回を「文永の役」、1281年の第2回を「弘安の役」と呼ぶ。

通説によれば、モンゴル軍(以下、元軍)は、都合2度にわたって攻め寄せ、斬新な戦法で日本軍を大いに苦戦させる。だが、いずれも「神風」(暴風雨)によって撤退。日本が奇跡的な形で国土を守り抜くことができた、と信じている方も多いだろう。

また、同じく通説として「元軍は集団戦を挑んできたので、日本軍の一騎討ち戦法は通用せず、大いに苦戦した」というものがある。だが、こうした戦闘描写は、蒙古襲来から30年後に成立した宗教書『八幡愚童訓』(はちまんぐどうくん)によるもの。「元軍を撃退できたのは神の加護のおかげ」という結論に結び付けるための文献が、いつの間にか「定説」となってしまっているのだ。

だが、高麗や中国に伝わる歴史書を紐解くと、実際の戦況はかなり違ったようだ。長らく「事実」として語られてきた元寇の戦況は、多面的な研究の成果によって覆えされつつある。いくつかのポイントに分け、解説していきたいと思う。

1.北条時宗がフビライの使者を斬ったのは何故か?

北条時宗 三宅鳳白 画

日本侵攻に先駆け、フビライは日本へ朝貢と降伏を促す使者を都合6回も派遣してきた。しかし、これに対して日本側は黙殺を決め込む。

当時の日本側の権力者は鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗。この年、24歳。6年前に18歳で執権職を継いでいた彼は、先代の政村の補佐も受け、強気な姿勢を崩さなかった。

フビライが寄こした文面は日本を格下として扱う非礼なものだったことで、強気に「黙殺」を決めた。もし攻めてきた場合、徹底抗戦する覚悟で軍備を整え始めたのである。

日本への文書の中で、フビライは「高麗とは親しくしている」と述べていたが、実際には何度も元の攻撃を受け、おびただしいほどの犠牲者を出した挙句、高麗はモンゴルの属国と化した。もし、弱気な態度を見せれば、日本は高麗と同じ運命を辿る可能性もあったのだ。

「文永の役」(1回目の襲来)が終わった翌年、7度目に訪れた使者を、時宗は処刑してしまう。一説に、これが原因で2回目の襲来(弘安の役)が行なわれたと思われがちだが、実際には日本へ使者が到着する前に、フビライは2度目の日本侵攻を進めていた。時宗はその魂胆を見抜いていたのかもしれない。

2.日本の武士は「集団戦が苦手だった」というのはウソ?

元が最初に日本を攻めた「文永の役」は、1274年11月11日に始まり、26日に終わった。蒙古・漢・高麗の連合軍約3万人を乗せた900隻の軍船が博多の早良郡(さわらぐん)に上陸。

日本軍は当初、初めてぶつかる元軍に苦戦したのは確かなようだ。しかし、元軍上陸後の赤坂および鳥飼潟の戦いといった会戦が始まると、日本軍は地の利も生かして奮戦し、元軍に損害を与え、敗走させている。

集団で矢を射る日本の武士たち
(蒙古襲来合戦絵巻より)

実は当時の合戦に、一騎討ちの記録はほとんどない。当時の日本武士団は騎兵による集団戦術を用い、また馬上から射程距離のある長弓を使い、遠くの敵を射抜いたのである。

敗走する元の兵士ら
(蒙古襲来合戦絵巻より)

これは日本側の記録ではあるが、『蒙古襲来絵巻』には武士団の射撃に恐れをなした元軍の兵士たちが背を見せて逃げる様子が描かれている。
一方、元軍の短弓は小さく、射程は6割程度で威力も弱かった。ただ、小さい分だけ連射が利くうえ、矢じりには毒を塗っていたため殺傷力が大きいという利点はあった。両軍の弓矢の応酬により、元軍の副将・劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷し、これが元軍退却のもとになったともいう。

さて、戦闘が続くにつれ、元軍は日本軍の手強さに舌を巻いたようである。
「騎兵は結束す。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」と、騎兵が結束して(集団で)勇敢に立ち向かったことが、元軍側の記録からも明らかだ。

もちろん、日本軍も大きな損害を受けた。「日本人195人戦死、下郎は数を知らず」「松浦党、数百人戦死」とあり、正確な数字は不明ながら少なくとも数百人規模の戦死者が出た。元軍はこれで一定の成果を挙げたと見たのか、それとも副将・劉復亨の負傷の影響か、撤退する。

ちなみに初回の「文永の役」のとき、台風や暴風雨は起きていない。時期的にも11月に台風が起きるとは考えにくい。

3.再度の襲来では、元軍はほとんど日本に上陸できなかった?

6年後の1281年6月6日、元軍は前回の3倍以上にも及ぶ15万人もの兵を乗せた軍船4,400艘で再度、攻め寄せてきた。2度目の蒙古襲来「弘安の役」の開始である。その艦隊の規模は、まさに世界最強の帝国にふさわしい威容で、フビライの「本気」を感じさせる。

元軍の船団
(蒙古襲来合戦絵巻より)

「元軍は一瞬のうちに日本軍の軍営を打ち破り、勝報は朝夕のうちに伝わるだろう」と、高麗人の僧による漢詩が残る。
しかし、日本側もこの6年の間に、万全に近い防衛体制を整えていた。博多湾岸に約20kmもの防塁を築いていたのである。

蒙古襲来合戦絵巻にも見られる防塁

元軍は先遣隊の東路軍と、主力隊の江南軍の2陣に分かれていた。先遣隊である東路軍は防塁に阻まれ、博多湾からの上陸を諦めざるをえなかった。それどころか元軍は、この2度目の襲来では日本へまともに上陸することもできなかったのだ。

元寇の地理図
(山川 詳説日本史図録より)

東路軍が石塁のない部分から上陸することを見越し、日本軍は執拗なゲリラ戦を仕掛けた。
この奇襲戦法に損害を被った東路軍は後退。やむなく東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸、ここを占領して、主力である江南軍の到着を待つ。しかし、日本軍の度重なる夜襲を受けて苦戦に陥り、さらに壱岐島へと後退した。

6月29日、日本軍は壱岐島へ総攻撃を仕掛ける。一進一退の攻防の末、江南軍が平戸(長崎)に到着したため、東路軍はまたも後退。その後、戦況は膠着状態に陥ったが、7月27日になると鷹島(たかしま)の沖合で両軍は海戦を繰り広げた。

4.「神風」は、勝敗に影響しなかった!

こうなると、日本軍が鷹島に停泊する元軍の艦隊を攻める形で、いつの間にかどちらが攻撃側か守備側か分からない状況になっていた。

元軍の船に果敢に攻めかかる日本軍の武士 (蒙古襲来合戦絵巻より)

7月末、台風が起きた。これで元軍は大きな被害を受け、沈む船や溺死する将兵が続出した。とはいっても、4,400艘の船団全体が被害を受けたわけではない。特に東路軍は軽微な損傷であったという。

しかし、もはや開戦から早2ヶ月が経過。出航から数えれば元軍は3ヶ月も海上で過ごしていたことになる。兵の間には厭戦気分が漂い、士気も低下していた。

「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」(『蒙古襲来絵詞』)

元軍はそうした悪条件が重なり、ついに引き揚げたのである。だが、御厨(みくりや)海上や鷹島には逃げ遅れた元軍が残っており、なおも抗戦の構えを見せていた。日本軍は10日間かけてこれを掃討し、2~3万人もの元軍を捕虜とした。

朝鮮半島へ帰還できた兵士は全軍の1割とも4割ともいわれているが、この元寇の失敗によって、元軍は海軍戦力の2/3を失ったという。

弘安の役は夏の戦いであったため、台風は確かに起きた。しかし、それは勝敗を左右するほどの決定打になったわけではなく、台風が起きる前から元軍は上陸する術を失って海上を右往左往していた状態であり、決着は時間の問題だった。よって、台風は「神風」でもなんでもなかったのである。

日本軍は、元軍の約半数の兵力にも関わらず勝利を収めた。さらに東国からは援軍が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に元軍は引き揚げていたのである。

5.フビライは、三度目の襲来も準備していた?

フビライは敗戦後もなお、日本へ使者を送って降伏を呼びかけ続けた。当然、日本側は応じないので、3度目の日本侵攻計画を本気で準備していたようだ。

結果的には、ベトナム方面で大規模な反乱が起きたことや、腹心たちの反対に遭って、ついに中止を決定した。だが、晩年に至るまで日本侵攻を諦めきれなかったようだ。

6.フビライは、なぜそこまで日本にこだわったのか?

さまざまな説があるが、面白いのは「マルコ・ポーロから黄金の国・ジパングの情報を聞いたから」とする説である。

マルコ・ポーロ(1254~1324)

マルコ・ポーロは、1271年から24年間にわたってアジア各地を旅したベネチア人。フビライにも面会し、西洋の特使として優遇されている。彼は『東方見聞録』に記した日本の情報をフビライに伝えたという。

「シパングは東方の海上にある孤島で、大陸からは1500海里の距離にある、極めて巨大な島です。島には非常に大きな宮殿があり、この宮殿の床とあらゆる部屋は大きな純金の板でできていて、その金の厚さは指二本分ほどもあるのです。島の住民は宝石を大量に持っていますし、真珠もたくさん持っています。赤い真珠で非常に貴重で、その価値は白い真珠に匹敵します」

日本では8世紀後半から砂金が採れるようになり、遣唐使の滞在費用として大陸に砂金が持ち込まれたり、金箔で塗った仏像や仏画の出現、さらに奥州藤原氏による平泉の黄金文化(中尊寺金色堂など)の存在も知られ、誇張されて国外へも広まっていた。

ヨーロッパには9世紀ごろから、「東方には『ワクワク』という黄金の国が存在する」という伝説が流布し、多くの人が興味を持っていた。『ワクワク』とは、倭国がなまったとする説が有力である。15世紀末、コロンブスがインドをめざして大西洋へ船出し、アメリカ大陸を発見したのも、「ワクワク」への憧れからであった。

その「ジパング伝説」をマルコ・ポーロから聞いたフビライが、日本に興味を持ち、侵略に心を動かされたと考えても違和感はなさそうである。

余談ながら、同じくマルコ・ポーロの「ジパング伝説」に憧れていた人物としては、15世紀のスペイン人・コロンブスがいる。彼は、「新大陸(アメリカ)には黄金が山のようにある」と幻想を持っていたが、実際に採れる金の量はわずかだった。しかし、幻想を捨てきれないコロンブスはじめ、スペイン人たちは「もっとあるはずだ」と思ったのか、現地のインディアンたちに略奪を働き、労働を強いて金を根こそぎ奪い続けている。その後のアメリカ・インディアンが辿った道はご存じの通りである。

世界の征服者・侵略者は残虐。もしも日本が元軍の侵攻を許し、植民地になっていたら・・・考えるだけで恐ろしい運命が待ち受けていただろう。日本軍の圧勝に終わったとはいえ、元寇は決して楽な戦いではなかった。大陸の侵略者から祖国を守った武士たちの奮戦を讃えたい。

※フビライはクビライ、モンゴルの王を表すハンは、カン、ハーンなどとも記しますが、この原稿では「フビライ」「ハン」で統一しています。

【文/上永哲矢(哲舟)】

<関連記事>
【世界の4分1を支配した男】元の初代皇帝フビライ・ハンとは?
【北条時宗と元寇】蒙古襲来から日本を救った英雄と呼ばれる男
【キングダムから三国志まで】いっきに学ぶ中国の歴史

Return Top