超一流の弓の腕で妖怪を退治して天皇から名刀を頂戴し、歌人としての才能をフルに発揮して高い位と絶世の美女を手に入れた男、源頼政(1104~1180)。清和源氏としてはトップクラスの従三位を極めた頼政の、武勇と歌才で泳ぎ切った人生をご案内いたします。
しぶしぶ射っても一発命中【ぬえ退治】
頼政の1番有名な武勇伝といえば「鵺(ぬえ)退治」。
鵺は頭が猿、胴体が狸、手足が虎、尾が蛇、の気味悪い声で鳴くという妖怪。これを得意の弓で見事退治したのが頼政でした。「平家物語」をはじめさまざまな説話集などにも見られる有名な逸話です。
平安時代末期、近衛天皇の御所の上に夜になると黒い雲が覆うようになり、天皇はすっかり具合が悪くなってしまいました。そこで左少弁・源雅頼が「こんな妖怪を倒せるのは頼政だけですっ」と進言。
頼政は「妖怪退治をするために御所に勤めているわけじゃない」と嫌がったのですが、勅命とあれば従うほかありません。「南無八幡大菩薩」と唱えて弓矢を放つと見事鵺に命中。落ちてきた鵺を手下の猪早太が捕まえ、刀を9度貫き、とどめを刺しました。
【獅子王】下賜の誉れに照れる頼政
近衛天皇は鵺を退治した頼政に感心なさって「獅子王」という刀を下賜されたといわれています。この獅子王、現在まで伝わっていて、重要文化財として東京国立博物館に収蔵されています。
刃長は二尺五寸五分(約77.3cm)反り9分(約2.7cm)の少し小ぶりの太刀です。当時の鞘は失われていて現在の黒漆糸巻は鎌倉時代に製作されたものとのこと。
獅子王を近衛天皇より預かり、頼政に渡す役どころを務めたのは、当時左大臣の藤原頼長でした。男色家としても知られ、悪左府の異名を持つ頼長は
「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな(ホトトギスが空の雲まで鳴き声を響かせるようにあなたも宮中に名を轟かせましたね)」
と頼政に歌いかけました。
頼政が和歌に秀でていることを知っていたのでしょう。頼政は答えて
「弓張り月のいるにまかせて(三日月の方向へ弓を射っただけです)」
と詠みました。
「弓張り月」と「弓」、「月のいる(=月が空にあるところ)」と「射る」を掛けたこの歌に近衛天皇も左大臣・頼長も「弓も歌もたいした腕前だ」と唸ったそうです。
「じっちゃんの名にかけて!」魔物退治の雄・源頼光から伝わる【名弓・雷上動】
頼政が弓の名手だということは鵺退治に引っ張り出されたことでもわかりますが、頼政の弓がこれまたスゴイのです。「雷上動」という銘の頼政の弓は、高祖父にあたる源頼光から代々伝えられてきたもの。そう、頼政はアノ酒呑童子や土蜘蛛をやっつけた武勇伝で名高い源頼光の玄孫(孫の孫)なのです。
「名弓・雷上動」は、楚の国の弓の名人・養由基(ようゆうき)から「夢を介して」頼光へ授けられたものでした。
ある時、頼光の夢に養由基の娘・枡花女(しょうかじょ)があらわれて、雷上動と水破・兵破(すいは・ひょうは)の2本の矢をくれたのです。頼光が目を覚ますと弓と矢が!
そして、これが頼光から頼國、頼綱、仲政(頼政の父)、そして頼政へと伝えられたのです。頼光のパワーが入った「雷上動」で頼政は弓の名手となったのですね。
清盛のうっかりミス?!和歌で従三位をゲット!
頼政は保元・平治の乱で天皇や院の周囲が大騒ぎになっている中、源氏ながら平清盛に気に入られ重用された稀有の人物。しかし、そのわりには昇進スピードがいまひとつでした。
そんな頼政の昇進のカギとなるのが「和歌の才能」でした。保元3(1158)年、55歳の頼政の身分は兵庫頭。そこでこんな和歌を詠みました。
「人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな(大内山の山守=自分は木々のすき間から月=天皇を拝見するだけです)」
この歌がきっかけで頼政は昇殿を許されました。昇殿することイコール殿上人となること。やっと幹部候補というわけです。
そして承安元(1171)年には正四位下となりますが、まだまだ満足できません。ここで再び和歌!
「のぼるべきたよりなき身は木の下に椎をひろひて世をわたるかな(椎=四位の木に上るすべのない自分は落ちた椎の実を拾って暮らすのですよ)」
この歌を耳にした清盛は「え?頼政をまだ三位にしてなかったっけ?」と自分のうっかりに気付いてすぐに頼政を従三位にしたのです。
でもこの時頼政はもう75歳。ちょっと遅すぎ・・・?
ともあれ和歌の才能、恐るべしですが、やっぱり直接言うとかそういうことは難しい時代だったのでしょうか、ね。
和歌で美女をも手中に!「ホンモノの菖蒲御前はどれでしょう?」クイズ?!
頼政が和歌の才能を発揮して得たのは位だけではありません。頼政には4人の妻がいたといわれていますが、その中でも絶世の美女として知られるのが菖蒲御前。
菖蒲御前はもともと鳥羽院の女房でした。頼政はちらっと見かけた菖蒲御前に一目惚れして手紙を送ったりしているうち、それが鳥羽院の知るところとなってしまいます。
鳥羽院は菖蒲御前とほか2人の女性に同じ着物を着せて、頼政に「この中から本物を選んでみよ」と。困った頼政、ここで和歌です!
「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ(五月雨で沼の水が石垣を越えて溢れていますので=わたしの胸の思いが溢れていますのでどれがあやめなのか引き抜くのをためらってしまっています)」
鳥羽院はこの歌を聞いて感心し「うまいっ!菖蒲御前を連れて行ってよしっ!」ということになりました。めでたし、めでたし。「源平盛衰記」にあるエピソードです。
甲冑を脱ぎ捨てて…頼政の最期
治承3(1179)年、平清盛がクーデターを起こして京都を制し、翌年には安徳天皇を即位させました。頼政は後白河法皇第3皇子・以仁王の側に付き、清盛の敵となります。
なぜ頼政が清盛に対して反旗を翻すことになったのかはなぞです。「平家物語」では息子・仲綱に清盛三男・宗盛がひどい恥辱を与えたから、と記していますが、これだけで長年従ってきた清盛を裏切るでしょうか。真相はわかりません。
しかし、頼政は最期まで命を賭けて以仁王を守ろうとしました。平家軍に追われた以仁王を擁する頼政たちは、京都・平等院に到着します。頼政は甲冑を身に着けていなかったといいます。覚悟を決めていたということですね。平家軍は次々押し寄せ、宇治川を渡られてしまえば頼政たちに勝ち目はありません。
川に渡された橋板を剥がしたりして抵抗したものの、馬を筏にした平家軍に攻め入られてしまいます。以仁王を逃がした頼政は平等院で自刃。享年77歳でした。墓所は平等院子院の最勝院にあります。
辞世の歌は「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」というものでした。
しかし現代までその名声は伝えられていますし、歌才も高く評価されています。頼政は十分に花を咲かせたと思いますが、みなさんはどう思われますか?
(こまき)
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