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【徳川よりも面白い?】波乱万丈すぎる!足利15代将軍まとめ

9代将軍:足利義尚(よしひさ)

足利義尚像
(地蔵院蔵)

子ができなかった義政が跡継ぎにしようとした弟と、その直後に生まれた実子の2人の争いが一因となり、応仁の乱が起こったというのは有名な話。ところが、その結果、どっちが将軍となったのかは、意外と知られていませんでした。
9代将軍となったのは、義政の実子・義尚です。20歳を過ぎてからは、近江の武将六角高頼征伐に自ら出陣しますが……忍者の攻撃にあったりして、結果、陣中で病没してしまいます。

10代将軍:足利義稙(よしたね)

足利義稙坐像
(等持院霊光殿安置)

義尚の1歳下の従兄弟。部下に裏切られて将軍を廃されるというかつてない苦難を経験した将軍です。しかし、彼は捲土重来を志し、有力武将を味方につけ、再度将軍に復帰します。まさに「リバイバル将軍」!ところが、その後は有力武将と対立して、再び京都を追われてしまいます。結局、二度目の復活はならず、四国の地で客死します。
義稙は何度か改名していて、初名は義材(よしき)、将軍職を終われ逃亡中の明応7年(1498)に義尹(よしただ)、将軍復帰後の永正10年(1513)に義稙になりました。

11代将軍:足利義澄

足利義澄坐像
(等持院霊光殿安置)

伊豆に生まれ、出家後、還俗して11代将軍に就任したのが足利義澄。義尚、義稙とは従兄弟の関係に当たります。しかし、政治の実権はほぼ家臣であるはずの武将に握られており、義稙が将軍に復活すると、京都を追われ近江国(滋賀県)に逃亡します。流れ流れて31年の生涯を終えました。

12代将軍:足利義晴

足利義晴像
(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

リバイバル将軍義稙を追放した武将たちに擁立されたのが12代将軍義晴。しかし、政権は安定せず、一揆の勃発や武将の蜂起などによりたびたび近江国へと亡命。こうして将軍と家臣が揃って近江へと逃亡した状態を「近江幕府」と呼ぶ人もいます。10歳で将軍となった義晴は、35歳で将軍職を子の義輝に譲っています。

13代将軍:足利義輝

足利義輝像
(国立歴史民俗博物館蔵)

一部マニアの間では人気沸騰中の剣豪将軍義輝。塚原卜伝直伝のすご腕で、対抗勢力と争い、室町幕府の再興を試みますが、最後には暗殺されてしまいます。
辞世の句は「五月雨は露か涙か時鳥(ほととぎす)我が名をあげよ雲の上まで」でした。

14代将軍:足利義栄(よしひで)

阿波国(徳島県)生まれの義輝の従兄弟。有力武将に担がれ14代将軍になりました。しかし、入京準備をしているうちに、織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて先に入京してしまいます。こうして義栄は、京の都に入ることなく、病没しています。

15代将軍:足利義昭

足利義昭像
(東京大学史料編纂所蔵)

兄・義輝の暗殺後、逃亡の旅に出、ようやく織田信長に擁立されて15代将軍に就任します。やがて信長と対立し、武田信玄上杉謙信、本願寺などと結んで信長包囲網をつくり、幕府再興を試みますが、結果は失敗に終わります。その後、豊臣秀吉の代になると、幕府再興の夢をついにあきらめ、1万石の知行を得て、朝鮮出兵の際には名護屋城に出陣することまで行っています。その直後、病により死去した義昭の葬儀に参列した足利家臣は、わずかに30余名ほどだったといわれています。

今回は、足利15代将軍を紹介しましたが、いかがだったでしょうか。幕府を追われた将軍、暗殺された将軍、そもそも幕府に入れなかった将軍など、足利家がいかに波乱に満ちていたかがわかります。中世ブームにのる前に、足利15代将軍に興味を持ってみてはいかがでしょうか。

※年齢はその年に迎える満年齢(数え年-1)で統一しました。

(福田智弘)

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