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【 一ノ谷、屋島、壇ノ浦で検証 】やっぱり源義経は軍事の天才だった!?

歴史をひもといてみると、時として軍事の天才に出くわします。ナポレオンや豊臣秀吉などは、文句なくそうでしょう。では平安時代、源平合戦でめざましい活躍を見せた源九郎義経は、はたして軍事の天才だったのでしょうか。何かと悲劇がつきまとう義経ですが、ここでは彼の軍事的な側面について、一ノ谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いの三つの合戦から考えてみたいと思います。

源義経像
(中尊寺蔵)

大活躍が不信を招く結果になった一ノ谷

まず、1184年(寿永3/元暦元)に起きた一ノ谷の戦いについて。前の年に、まだ幼い安徳天皇を連れて都落ちした平家は、西国で勢いを盛りかえし、摂津に進出して一ノ谷に陣を構えました。一ノ谷は、かつて平清盛が一時的に都としていた福原に近く、後ろには六甲の山並みが迫っていて、東から近づくには狭い海沿いの道を通らなくてはなりません。鎌倉方の軍勢を迎え撃つには、都合のよい場所だったことがわかります。

ただし、鎌倉方の総大将は義経ではなく、源範頼です。範頼は、さほど武勇にすぐれた人物ではなかったようですが、義経より年長で、鎌倉の方針に逆らわない範頼の方が、全体の束ね役としてはふさわしい、と源頼朝は見ていたようです。
この範頼を参謀長兼お目付役として補佐していたのが、頼朝の腹心で、鎌倉方随一の切れ者といわれる梶原景時でした。一般には、景時が頼朝に告げ口をしたために、兄弟の間に亀裂が入ったといわれることが多いのですが、実際はどうだったのでしょうか。

一ノ谷の戦いが行われた摂津国福原および須磨(兵庫県神戸市中央区および須磨区)。
須磨浦公園にある「戦の濱」の碑。

一ノ谷の戦いは、基本的には陣地攻略戦でした。平家側は、東からの海沿いの道にバリケードを幾重にも築いて、敵の攻撃に備えていました。そこで鎌倉方では、梶原景時らの指揮する主力勢が、バリケードを壊して少しづつ敵陣に近づくような、地道な戦いをはじめていました。

一方の義経は、別働隊を率いて山道を進み、平家陣の西側から回りこむ手はずになっていました。つまり、一ノ谷を東西両側から挟み撃ちにする作戦だったわけです。ところが義経は山道を行く途中で、北の山側から平家の陣に襲いかかることを思いつき、道なき山中を強引に進むことにしました。

「鵯越の逆落とし」とも言われる、義経の奇襲。
(『源平合戦図屏風』より)

結果として、平家軍は範頼・景時らの鎌倉軍主力と戦っている最中に、山を下ってきた義経勢に背後を襲われ、総崩れとなります。平家方の有力武将は次々に討ち死にし、平宗盛らの首脳陣は安徳天皇をともなって船で脱出しました。平家方は、巻きかえしの足がかりを失って、瀬戸内方面に追い落とされることとなったのですから、鎌倉方の大勝利です。

ところが、梶原景時はこの勝利を喜ばず、むしろ義経に不信感を持ちました。鎌倉方の目的は、平家を討ち滅ぼして安徳天皇と三種の神器を取り戻すことであって、単に合戦に勝てばよいというものではなかったからです。というより、安徳天皇と神器を取り戻すという大義名分があるからこそ、頼朝は後白河法皇から「平家を討て」という命令(院宣)をもらっているのです。そのためには、平家軍を正面から打ち破る必要がありました。

しかし実際は、義経が敵陣の後ろから不意打ちを仕掛けたために、平家の首脳陣も安徳天皇も、鎌倉方には手の届かない海の上に逃げてしまいました。頼朝の政治的立場がわかっている景時にしてみれば、これでは作戦が台なしです。義経のことを、目先の手柄ほしさに暴走する危ない若者だと思ったのも、無理はありません。

暴風のなか急襲した屋島の戦い

平家方は、態勢を立て直して讃岐の屋島に陣を構えました。昔から瀬戸内地方に勢力を築いてきた平家方は、水軍との縁も深く船いくさも得意でしたが、鎌倉方の武士たちのほとんどは、乗馬にはたくみでも船いくさの経験は乏しかったので、平家方は海からの攻撃ならはね返せる自信があったのです。

戦いの舞台となった屋島(香川県高松市)。
(写真提供:(公社)香川県観光協会)

一方の鎌倉方は、紀伊に集結して船を集めましたが、なかなか数が揃いません。そんな時、嵐が近づき東からの風が吹きはじめました。義経は、これをチャンスと見ました。そして、船の数が揃わなくても、少数精鋭で紀伊水道を渡って阿波に上陸し、そこから山を越えて讃岐に向かえば、屋島の陣を後ろから奇襲できる、と主張したのです。

梶原景時は猛反対し、義経と激しく対立しました。『平家物語』は二人の対立を、「逆櫓(さかろ)」というエピソードで紹介しています。景時は、少数の軍勢で阿波に上陸しようとして、もし敵が浜辺で迎え撃ってきたら上陸に失敗して惨敗してしまう、そこで船をこぐための櫓(ろ)を舳先にもつけて、危ないと思ったらすぐに退却できるようにすべきだ、と主張しました。 

これに対し義経は、最初から逃げる算段をするようでは戦いに勝てない、そんなに逆櫓が必要だというなら、景時の船には好きなだけ逆櫓をつければいい、といい放って両者は険悪になった、と『平家物語』は伝えています。でも、両者の意見が対立した本当の原因は、別の所にあったのではないかと思います。

たしかに、陸路から背後をつけば屋島は陥れることができるかもしれません。でも、それでは平家の首脳部と安徳天皇は海上に逃れて、一ノ谷の二の舞になってしまうのではないか。景時はそのことを怖れて、義経の策に反対したのでしょう。

結局、義経は景時の反対を無視して自分に従う者だけを連れ、暴風に乗ってまたたく間に紀伊水道を渡って阿波に上陸しました。そして、猛スピードで山を越えて屋島の陣を急襲したのです。不意をつかれた平家方は崩れ、屋島の陣を捨てて海上に逃れました。これはたしかに勝利ではありましたが、景時が心配したとおりの展開でもあったのです。景時からの報告を受けた頼朝が、義経の行動を不愉快に思ったとしても無理はありません。

屋島の戦いは、那須与一が扇の的を弓で射ったことでも知られる。
(『平家物語絵巻』より)

当時は誰も思いつかなかった戦術で勝利した壇ノ浦

ただ、一ノ谷、屋島と敗退を重ねたことによって、平家方の力が落ちてきたのも事実でした。有力な武将も次々に失いましたし、西国の武士たちの中から平家を見限る者も続出しました。大船団を得た鎌倉方は、ついに長門の壇ノ浦で最後の決戦を挑みます。

さすがに今度は、両軍が総力を挙げて正面からぶつかり合う形となりました。しかし、義経はまたも奇策を用います。敵の武士ではなく水主・梶取(かこ・かんどり)、つまり操船要員をまず射殺すよう命じたのです。義経の策が当たって合戦は鎌倉方の勝利に終わり、平家一門はついに滅亡しました。

壇ノ浦の戦い。
(『安徳天皇縁起絵図』より) 

この策について疑問だとする意見があります。そんな事は誰でも考えつくだろうとか、戦国時代の水軍書にもそうした戦法のことは書かれているから、策でも何でもないというのです。でも、僕はそうは思いません。なぜかというと…。

そもそも平安時代の朝廷は、政治や軍事に関しては外国と関係を絶っていたので、国家として軍備を整えることをやめていました。平将門藤原純友の叛乱のような事件はときどき起きましたが、国を挙げての戦争は基本的にはなかったのです。そうした中から興ってきた武士たちは、自分の所領や利権を守るために武力を蓄えている人たちでした。

ところが、頼朝や木曽義仲が兵を挙げ平家打倒を目ざして戦うようになると、全国スケールの大戦争になります。軍勢も万単位の数が動くことになりますが、そんな大軍を指揮して戦った経験など、誰にもありません。少し詳しくいうと、軍事学では戦争全体に勝つための方策を戦略合戦に勝つための方策を戦術といいますが、源平合戦の時には、そのちがいをわかっている武士など、誰もいなかったということです。

ですから、味方をできるだけたくさんかき集めたら、あとはドカンとぶつけて決戦をするしか方法がありません。組織的な戦術などないのですから、合戦といっても個人戦があちこちで起きているだけなので、モノをいうのは個人の武勇や技量です。しかも、武士たちは恩賞目当てに参戦してきますから、恩賞がもらえるように手柄を立てようとします。名のある敵を討ち取るとか、首をいくつ取ったか競うわけです。

海戦の場合だと、水主・梶取は戦闘要員ではありませんから、討ち取っても手柄にはならないのが普通です。おそらく、水主・梶取を先に射殺すという発想は、当時の武士たちにはなかったのでしょう。

戦略と戦術のちがいに初めて気づいた武士・義経

このように見てきたとき、やはり義経は軍事の天才だった、と僕は思うのです。個々の合戦に勝つための方策=戦術において、義経の発想は景時をはるかに超えていました。義経は、戦術というものをはっきりと意識していたように見えます。だとしたら義経には、戦術の反対側にある戦略も見えていたのではないでしょうか。

何万という軍勢を動員して、全国スケールでくり広げられる戦争は、たった一回の決戦ではカタがつかない。だとしたら、戦術的な勝利を積み重ねて敵の力をそいだ上で最後の決戦を挑む。義経には、そんな戦略が見えていたように思うのです。義経は、日本の武士たちの中ではじめて、戦略と戦術のちがいに気がついた人だったのではないでしょうか。

なぜ、義経がそのような才能を身につけることができたのかは、正直よくわかりません。ただ、やはり育ち方の中に秘密があるように思います。幼くして鞍馬寺に預けられ、のちにそこを脱して奥州藤原氏の食客となった、という経歴の中で、一般の武士たちとはちがう素養を身につけていったのではないでしょうか。

軍記が「八艘飛び」や「弓流し」といったエピソードを伝えていることにも、興味をひかれます。

壇ノ浦(山口県下関市)にある、みもすそ川公園の
源義経像は八艘跳びを表現。

壇ノ浦の戦いで平家方の剛勇な武士から一騎打ちを挑まれた義経は、次々と隣の船に飛び移って逃げたというのが「八艘飛び」。
また、合戦中にうっかり海に弓を落とした義経は、慌てて拾おうとします。近くにいた味方の武士が、「源氏の大将たるものが弓の一張くらい惜しんでどうするのですか、みっともないからおよしなさい」ととめるのですが、義経は「惜しいのではない、この弓が敵の手に渡って、義経が非力だと知られては困るのだ」といって、弓を拾ったというのが「弓流し」です。

どこまで本当かわかりませんが、これらのエピソードは義経が剛勇の武者ではなかったことを示しています。当時は、すぐれた武士といえば、馬術にたけて強力な弓を引き、大きな太刀や薙刀を自在に振り回すような人を指していました。戦略も戦術もない時代には、大力剛勇がそのまま戦闘力の高さとして評価されたのです。

しかし、普通の武士とちがう育ち方をした義経は、大力剛勇の持ち主ではありませんでした。その代わり、普通の武士とはちがう自由で合理的な発想を身につけていたのではないでしょうか。どうもそのあたりに、義経が軍事の天才となった秘密がありそうですね。

大河ドラマ「義経」

放送日:2017年11月14日(火)スタート 月-金 午後2:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/yoshitsune/

【ストーリー】
平治元年(1159年)12月。平治の乱で源氏軍が平家に破れ、源義朝の愛妾・常盤は、乳飲み子の牛若(のちの義経)と幼子らを抱えて都を逃れ雪の中をさまよい歩いていた。母が平家に捕らえられたことを知る常盤は、自分の命と引きかえに母と子らの助命を求めて平清盛のもとへ出頭する。清盛は先に捕らえた源氏の嫡男・源頼朝の命とともに思案する。

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