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【 薩摩藩躍進の影の立役者!? 】義の人・調所広郷

大河ドラマ「西郷どん」では竜雷太さんが演じた調所広郷西郷隆盛の目を通して物語を追う私たち視聴者の中には、微妙なイメージを持ってしまった方もいるかもしれません。しかし、調所はそこまで悪い人間だったのでしょうか。実は、彼が薩摩藩で積み上げた功績こそ、後の薩摩藩が明治維新で重鎮となっていく上で、とても大きな意味を持っているんですよ。

調所広郷ってどんな人?

島津重豪に見込まれながらも、
彼のつくった借金を返済することになった広郷。

調所広郷が生まれたのは安永5年(1776)2月5日のこと。天明8年(1788)には調所家の養子となり、茶坊主として出仕したのがキャリアのスタートでした。
転機は寛政10年(1798)、江戸で前薩摩藩主・島津重豪に才能を見込まれ登用されたことでした。その後は重豪の子・斉宣、そのまた子の斉興と、歴代藩主に仕え、ここで彼は行政改革の凄腕ぶりを発揮していくようになるのです。

天保9年(1838)に薩摩藩家老となると、調所は藩の抱える膨大な借金問題のため、数々の改革を敢行します。
そして見事、藩財政を黒字に戻しますが、この頃、藩内では斉興の後継問題を巡ってのお由羅騒動が勃発。斉興隠居のために、斉彬が薩摩藩の密貿易を幕府に告発したため、調所は糾問を受けますが、その直後に藩邸で急死しました。主君・斉興に罪が及ぶのを防ぐため、自ら毒をあおったともいわれています。

500万両の借金を200万両の貯金にまで戻した調所の改革

開明的だったが、同時に
膨大な借金を作った島津重豪。

蘭学に通じ、教育や文化面に力を入れた重豪によって藩校が建設され、天文学や医学にまで研究が及びましたが、それは同時に薩摩藩の借金を膨れ上がらせていきました。結果、調所が財政改革を命じられたころの藩の借金額は500万両約5000億円)にまで達していたのです。

こんな状態にありながら、上からは借金完済に加えて10年で50万両の貯金をしろと命じられたのですから、調所の苦労は相当なものだったはずです。それでも、舵取りを任された以上、調所は懸命に財政再建に励むことになりました。

調所はまず、藩の借金の無利子化を行います。手段は「商人を脅迫する」というあまりよろしくないものでしたが、これで借金は「無利子・250年分割払い」というほぼ有り得ないような条件にまで持っていくことができました。

また、調所が目を付けたのが奄美群島で生産される黒砂糖でした。この生産から販売までを藩の支配下に置き、230万両を超える利益を上げたのです。

奄美大島のサトウキビ畑。今でも黒糖は名産品です。

それだけでなく、調所は琉球や清との密貿易も行いましたが、商人にはこれを斡旋して利権を優遇していたのでした。
かなりブラックなところもありましたが、すべては藩の財政のためと調所は考えていたのです。

本当に悪人なのか?

黒砂糖の件をはじめ、島民に重労働と厳しい税を課し、商人を脅迫し、密貿易にまで手を染めた調所は、悪人としての見方の方が強いでしょう。
しかし実際は、斉彬が藩主になってからの方が税率はアップしていたのです。

英明な君主だったが、
実は増税していた島津斉彬。

明治維新の功労者ともいえる斉彬や西郷、大久保利通といった、きらびやかな面々にスポットライトが当たるあまり、調所が負のイメージを引き受けさせられることになってしまったわけですね。

そうした見方は、明治時代が終わり、さらに後の第2次大戦後に変わって来ました。調所の財政改革があってこそ、斉彬や西郷らの倒幕運動の基盤がつくられた、ひいては日本の近代化にまでつながったのだということで、調所は陰の功労者だと再評価されるようになったのです。

重豪に見出されながらも、重豪に似た斉彬ではなく対立する斉興側に立ち、藩財政のためと粉骨砕身した調所広郷。彼こそ、薩摩藩と主のために尽くした「義の人」と呼んでもいいのではないかと思います。

(xiao)

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