解剖書といえば杉田玄白らの『解体新書』が有名ですが、実はその前に自ら解剖を行い、『蔵志』という解剖書を出していた医師がいたのをご存じでしょうか。今回は、日本で初めて人体解剖を行った山脇東洋についてご紹介します。
天皇の侍医だった東洋
ご存知の通り江戸時代は鎖国状態。そうした状況の中でも、8代将軍徳川吉宗は、実学と新しい産業を奨励するため、キリスト教関係以外の洋書の輸入制限を緩和。青木昆陽や野呂元丈らにオランダ語を学ばせ、洋学は蘭学として発達していきます。
そうした動きがいち早く取り入れられたのが、医学や科学技術でした。特に漢方医学では、元・明時代の医学を重んじていた当時の流れに対し、臨床実験を重視する漢代の医術に戻ろうとする古医方(こいほう)が現れ、その流派のひとりが山脇東洋だったのです。
山脇東洋の父も医師でしたが、父の師で宮中の医官である山脇玄脩の養子となり、享保11年(1726)に家督を継ぎます。家督相続の御礼に吉宗にお目見えし、2年後には中御門天皇の侍医となるなど、超エリート医者でした。
日本で初めて人体を解剖
その後、当代随一の古医方の医家だった後藤艮山(こんざん)に師事した東洋は、実証精神を学ぶとともに、東洋医学の五臓六腑説(「肝、心、脾、肺、腎」と「大・小腸、胆、胃、三焦、膀胱」)に疑問を抱くようになります。オランダのヨハネス・ヴェスリングによって1641年に発刊された『解剖学の体系』を入手していたこともあり、当時内臓が人間に似ていると言われていたカワウソを解剖したそうですが、やはり見たいのは人体だったわけです。
そんな東洋に巡ってきた機会が死刑囚の腑分けでした。
宝暦4年(1754)2月7日、斬首となった罪人5人のうちの1人が埋葬されずに、元の六角獄舎(京都市)に戻されて残っているとの情報を得た東洋は、京都所司代の酒井忠用に解剖許可願いを提出。東洋の弟子の小杉玄適、伊藤友信が、所司代と同じ若狭の藩医だったことから願いが聞き入れられ、弟子らとともに死刑囚の腑分けを行います。
これが日本の歴史に残る、最初の人体解剖でした。
この解剖をもとに山脇東洋は5年後の宝暦9年(1759)、解剖書『蔵志』を刊行します。
解剖したのが死刑囚だったため、頭部がなく胴体と四肢のみだったのですが、内臓の大きさ、色、形を正確に写したこの書は、東洋医学の五臓六腑説における身体機能認識の誤謬を指摘するのに十分なものでした。
東洋の弟子から刺激を受けた玄白
当時、人体解剖は古医方においても抵抗が強かったため批判を浴びた東洋ですが、そのあとの医学界に大きな影響を与えました。
『蔵志』の付録には、斬首刑に処せられた遺体によって、それまで不明だった人間の体の内部が明らかになったこと、その遺体には「夢覚信士」という戒名をつけて手厚く葬ったこと、「骨は朽ちても、その功績は永遠に残る」という弔辞が書かれています。
東洋による腑分けは、後年の前野良沢、杉田玄白らの腑分けに先立つこと17年前のことでした。玄白は、東洋の弟子だった小杉玄適の同僚で、彼から人体解剖の話を聞いた玄白は、大いなる刺激を受けたとか。その経験がより正確性の高いオランダ医学書の翻訳『解体新書』につながるのです。
今では当たり前のことも批判的だった当時。それを恐れずに行動を起こし、現在の医学の発展の礎を築いた東洋の熱意に感謝したいですね。
(編集部)
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