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【5月11日大津事件発生!】ロシア皇太子襲撃事件の真相に迫る

【5月11日大津事件発生!】ロシア皇太子襲撃事件の真相に迫る

大津事件とは、現在の滋賀県大津市で明治24年(1891)5月11日に起きた、訪日中のロシア皇太子襲撃事件のことを指します。皇太子ニコライは、のちのロシア皇帝ニコライ2世で、日露戦争の時のロシア皇帝となった人物。ニコライは琵琶湖遊覧からの帰途、警備に当たっていた巡査の津田三蔵に襲撃され、負傷します。事件は世界中に知れ渡り、日本政府の対応に注目が集まりました。今回は、あまり知られていない「大津事件」の概要やニコライ2世の経歴と人物像、事件後の日本とロシアの対応についてご紹介していきます。

被害にあったロシア皇太子 “ニコライ2世”

被害にあったロシア皇太子、ニコライはどのような人物だったのでしょうか。その経歴と人物像について、解説します。

波乱多きニコライ2世の生涯

ニコライ2世は、皇帝アレクサンドル3世の子息として1868年に誕生します。この時代のロシアは、革命家によるテロや労働者のストライキが起きるなど、不安定な政情でした。ニコライは絶対君主の帝王学を学び、22歳の時、見聞を広めるため世界一周旅行に出ます。現在のエジプト、インド、スリランカ、シンガポール、ベトナム、中国などを回り明治24年(1891)、シベリア鉄道竣工計画に合わせて日本に到着。ここで大津事件に遭遇しました。事件の3年後にアレクサンドル3世が死去。皇太子のニコライが皇帝の座に就きますが、積極的な政策がなく、皇帝の権威を失墜させていきました。日露戦争では日本に敗北。さらに“怪僧”といわれるラスプーチンが、アレクサンドラ皇后の信頼を得て政治に干渉します。ニコライ2世は大臣と対立し、孤立しました。そして第1次世界大戦中に「ロシア革命」が起こり、革命軍によって正式な裁判もなく家族ともども銃殺されます。これにより、ロシアで約300年続いたロマノフ朝は終わり、ニコライの血筋は絶えました。

人力車に乗るニコライ2世
長崎を訪問したときの皇太子ニコライ。

ニコライ2世の人物像

ニコライ2世については、さまざまな評価があります。大臣や側近たちの進言に振り回される無能な皇帝と見なされる一方、非常に律義で品性があり、常に母親や家族を思いやる優しい人物であったようです。さらに親日家だったことも、本人の日記から分かっています。大津事件の後に書かれた日記で、“日本でイヤな事件にあったからといって、善良な日本人に腹を立てていない。日本人の清潔好きや秩序の正しさ、素晴らしい品物を気に入っている”といった趣旨のことを記しています。

事件が起こった背景とは?

皇太子ニコライの訪日は途中まで順調でした。なぜ津田巡査はニコライを襲ったのでしょうか。背景には、ロシアの東方政策に端を発する日本国内の「恐露病」がありました。恐露病とはロシアを恐れる人たちのことで、当時の日本で使用されていた言葉です。その頃の日本は、ロシアを恐れる感情であふれていました。

シベリア鉄道
現在のシベリア鉄道のウラジオストク駅。この鉄道建設計画はロシアにとって大きな事業でした。

大津事件のあらまし

皇太子ニコライは、明治24年4月27日に長崎に到着。長崎市民から盛大な歓迎を受けたあと、鹿児島、神戸を経由し京都に入ります。芸者の舞や東山の大文字を観賞して、ニコライもこのもてなしに満足したようです。そして琵琶湖や唐崎神社を見学していた5月11日、事件が起きます。人力車で帰る途中、警備の津田三蔵巡査に突然背後から切り付けられたのです。津田は人力車を降りて逃げるニコライを追いかけ、なおも斬りつけようとしました。そこを車夫の向畑治三郎(むかいはたじさぶろう)と北賀市市太郎(きたがいちいちたろう)が取り押さえ、ニコライを救いました。命に別状はなかったものの、東京訪問は中止となり、ニコライはロシアへ帰国します。

津田三蔵の写真
この事件の容疑者である津田三蔵(東洋文化協會)

背景にはロシアへの反発があった

当時、日本はロシアの極東進出を警戒していました。ニコライ訪日の前年、山県有朋が朝鮮半島への日本の影響を強めることを、施政方針演説で表明します。ロシアもシベリア鉄道建設計画を持ち、朝鮮半島の支配権を巡って日本と緊張した関係にありました。この緊張状態にかかわらず、両国の関係を円滑にしたいという思いから、政府は友好的にニコライを迎えたようです。訪日は私的なものでしたが、明治天皇が国賓として迎えるほどの待遇でした。ヨーロッパから皇太子が訪れるのはニコライが初めてだったので、日本中が沸き立ったそうです。しかしロシアを恐れた人々の中には、ニコライの訪日を軍事視察と考える者もいました。

皇太子襲撃という暴挙に出た津田も、ニコライの訪日を軍事視察だと思っていたようです。取り調べで津田は、ニコライが日本来訪に際して東京よりも先に鹿児島に立ち寄ったのは、西郷隆盛のためだと供述します。西郷は西南戦争で自刃していますが、当時、西郷が実は生きているとのうわさがありました。津田は西南戦争の当時、官軍側にいて、もし西郷が帰ってくれば、功績が奪われると考えていたとされています。

事件発生後の日本とロシアの対応

皇太子ニコライが襲われたという事件は瞬く間に電報で伝えられ、日本全土を震撼させました。強国ロシアからの報復で戦争になったら、近代国家として駆け出したばかりの日本はひとたまりもありません。ここでは、緊迫する日本とロシアの対応についてみていきます。

日本国内の動き

ロシアの報復を恐れた日本政府は、津田を死刑にするべきだと考えました。旧刑法116条の「皇族に対して危害を加える、または危害を加えようとする者は死刑にする」という項目を基に、死刑を求めます。しかし、旧刑法116条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかったのです。「国家か法か」というこの難題に対して、大審院(当時の最高裁判所)の院長であった児島惟謙(こじまいけん/これかた)は、「法治国家として法は遵守されなければならない」という立場から通常の謀殺未遂罪を適用するよう掛け合い、無期徒刑(島に送り労役に服させる刑)の判決を下しました。政府からの干渉を退け、司法権の独立を守った大審院の判決は、西欧各国からも高い評価を得て、日本の法制史においても重要な出来事となったのです。

児島惟謙の写真
大審院の院長を務めた児島惟謙(国立国会図書館)

ロシアの動き

ロシア帝国の首都ペテルブルクでは、13日に初めて大津事件が報道されました。襲われた皇太子ニコライを、日本人が誰一人として助けようとしなかったという誤った新聞記事が出て、対日感情が悪化します。しかし、明治天皇がニコライを見舞い、神戸まで見送ったことが知られると、反日感情をあおるような論調は鎮まりました。何より、ニコライ本人が日本に対して配慮していたことが、ロシア側の怒りを鎮める決定打となったようです。結果、日本が恐れていた報復や領土の割譲は避けられました。しかし、その後、アジアや極東での植民地獲得競争は激しさを増していきます。ロシアと日本も帝国主義の流れにのまれ、やがて日露戦争に突入してしまいました。

日露戦争当時の集合写真
日露戦争当時の集合写真。

意外と知られていない重要な事件

これが、日本を震撼させた大津事件の概要です。ニコライ2世の素顔は常に周囲に気を配る親日家でした。事件の被害者が彼でなかったならば、日本の歴史はまた違った方向へ進んでいったかもしれません。政府に対する司法権の独立を守ったという意味でも、覚えておきたい重要な事件ですね。

 

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