2008年に放送された大河ドラマ「篤姫」で堺雅人さんが演じ、一気に知名度をあげた徳川家定(いえさだ)。家康、家光、吉宗、慶喜といった歴代将軍に比べるとまだまだ地味な存在ですが、家定は病弱でありながらペリー来航から鎖国の終わり、篤姫との結婚、海外との外交など、さまざまな出来事を経験した人物です。今回は、徳川家定の生涯と、その人物像についてご紹介していきます。
徳川家定の少年期は?
徳川家定は、文政7年(1824)に第12代将軍、徳川家慶(いえよし)の四男として生まれます。父親の家慶は子だくさんで、家定には26人の兄弟姉妹がいましたが、みな早世してしまい成人したのは家定だけでした。その家定も子供の頃から病弱で、人前に出ることが好きではない性格だったようです。
生前の家慶は、自身の息子である家定の性格や病弱であったことなどを考慮し、一橋慶喜を次期将軍にしようと考えていました。しかし、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定が次期将軍として選ばれることになったのです。
嘉永6年(1853)、浦賀にペリー率いる黒船が来航した19日後に父である家慶が病死。そのあとを継いで家定が第13代将軍になります。29歳の時でした。
将軍としての家定について
家定が将軍に就任して半年後の嘉永7年(1854)、ペリーが再び来日します。幕府はペリーと日米和親条約を結び、この条約によって、200年余り続いた鎖国は終焉を迎えることになりました。
このような大きな事件の影響もあり、もともと病弱だった家定は将軍となってから病状が悪化。実際の統治は、老中・阿部正弘や堀田正睦らが主導して行われました。
家定は、篤姫を妻として迎えたことでも有名ですが、子供に恵まれなかったため後継者争いが発生します。家定の従兄弟であり井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(後の徳川慶喜)が後任の座を巡って争いました。
安政5年(1858)6月25日、家定は死去する10日ほど前に慶福を後継者にする意向を伝え、7月6日、35歳という若さでこの世を去ります。将軍として在位したのは5年足らずで、20年以上にわたって職を務めた将軍も多い中、その在位期間は徳川15代将軍の中でも比較的短いものでした。家定の死因は、持病の脚気、もしくは当時流行していたコレラではないかといわれています。家定の病気の治療には、漢方医や蘭方医が診察を担当。それ以降、幕府では開国により広まりつつあった、西洋医学が取り入れられるようになりました。
知られていない家定の素顔とは?
家定は、身長が149センチメートルほどであったといわれています。現代的な尺度で見ればかなり小さいように思われますが、江戸時代の平均的な身長は男性155センチメートル、女性145センチメートルといわれており、突出して低かったというわけではないようです。
人前に出るのを嫌ったこと、お菓子作りなどの料理を好んだこと、篤姫との結婚や慶喜との不仲説など、家定にもその人物像をうかがわせるような、さまざまなエピソードがあります。
人前に出るのを嫌うシャイな性格
家定は将軍家に生まれながら、人前に出ることを嫌う性格の持ち主でした。その理由は諸説ありますが、もともと病弱だったという説と、幼少時に天然痘を患い、目の周りにアザがあったため人前に出たがらなかったという説があります。加えて、この他にも脳性麻痺だったのではないかといううわさもあるほどです。
お菓子作りは猜疑心から?
家定はカステラやまんじゅうなどを自ら作ることがあり、お菓子作りが趣味でした。この他にも、煮豆やふかし芋を家臣に振る舞ったこともあり、料理好きだったことで知られています。その一方でこんな説も……。家定の料理好きな一面には毒を盛られることを恐れて、自ら料理をしていたのではないかという話です。周りに対する猜疑心(さいぎしん)が、人一倍強かったのかもしれませんね。
アノ篤姫の旦那さま
家定には妻がいましたが、子供ができずに2人の妻が続けて早世。3人目の正妻として、島津斉彬(しまづなりあきら)の養女である篤姫(あつひめ・天璋院)が家定の元に嫁ぎました。
めでたく結婚した2人ですが、家定が多忙のためか、篤姫と会うことは少なかったようです。篤姫と家定の結婚生活はわずか1年9カ月と短いもので、二人の夫婦仲は、良かったという説と悪かったという説の両方があります。ですが、料理好きな家定がカステラを作って篤姫に振る舞ったという話や、ペリーが献上した品物であるミシンを篤姫にプレゼントしたという話もあり、心温まるエピソードとして残っています。
一橋慶喜との不仲
家定は自身の後継者争いの時に、一橋慶喜ではなく徳川慶福を選びました。家定の側小姓だった朝比奈閑水の回想によれば、家定は「自分より美形の慶喜が登城すると大奥が騒ぐ」という理由で慶喜を嫌っていたようです。また、一橋派である松平春嶽や橋本左内は家定をうつけだと評しており、そうした声も慶喜に対する憎悪をつのらせる要因になっていたのかもしれません。人前に出ることを好まず病弱であったという家定にとって、才覚にあふれ眉目秀麗であった一橋慶喜は妬みの対象だったのでしょう。
病弱すぎた将軍
家定は、病弱であったにもかかわらず、前将軍のただ一人の実子という立場から将軍の地位に就きます。もともと、人が嫌いであったことに加えて、黒船の来航という問題により心労が重なり、在位期間はわずか5年ほどでした。家慶の子供27人の中で、家定の他にも誰かが生き残っていたら、もしくは世の中が平穏だったならば、家定は違う人生を歩み、後世から異なる評価を得られたかもしれませんね。
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