岩倉具視は幕末から明治にかけて活躍した政治家です。かつて500円札に描かれていた人物として、ご存じの方も多いのではないでしょうか。放送中の大河ドラマ「西郷どん」では笑福亭鶴瓶さんが演じており、ドラマでの今後の活躍に期待が高まっています。
今回は、そんな岩倉の生い立ちから彼が関わった王政復古の大号令などの事件、明治政府での活動などについてご紹介します。
生い立ちとさまざまな事件
岩倉具視は公卿として生まれ、幕末の動乱期にさまざまな政治活動を行いましたが、文久2年(1862)に蟄居(ちっきょ)に追い込まれ、不遇の時代を過ごしました。
岩倉具視の生い立ち
岩倉は公卿の次男として京都に誕生しました。公卿というと楚々として優雅なイメージがありますが、岩倉は幼い時から公卿らしくなく、他の公卿から「岩吉」と呼ばれました。成長した後には、山賊の親分のような容貌と言われていたので、よほどいかつい顔つきだったのでしょう。しかし器量を見込まれて岩倉家の養子に選ばれました。岩倉家は中級公家でしたが、岩倉は積極的に朝廷の改革に関する意見書を提出するなど、若い時から精力的に活動します。公卿は学問に励んでいればいいという当時の幕府の方針から外れた、エネルギッシュな人物だったといえるでしょう。
八十八卿列参事件のときの行動
日米修好通商条約調印の許可を朝廷が幕府から求められた際、八十八名の公卿が連盟で反対しました。これが廷臣八十八卿列参事件とよばれる出来事です。日米修好通商条約は日本側に不利な要件を含んでいたため岩倉は反対し、公卿を組織して反対運動を行いました。結局、彼らの抗議が通り孝明天皇は幕府に条約調印に関しては再検討するようにと指示を出します。これが、岩倉の初めての政治活動かつ勝利でした。
安政の大獄当時の様子
当時の大老・井伊直弼が朝廷の許可を得ず、日米修好通商条約を結んだことから、天皇をはじめ各地の有力な大名が抗議を起こします。これに対し井伊直弼が行った弾圧事件が安政の大獄です。多くの尊王攘夷派らが投獄されたり処刑されたりしました。岩倉はこのとき、幕府と朝廷の関係が悪化して国全体に問題が起こることを懸念し、両者の関係改善を図ります。この時、岩倉は会談した京都所司代・酒井忠義と意気投合し、自身も幕府寄りの姿勢をとっていたそうです。
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和宮降嫁のときの岩倉
安政の大獄終結後、幕府は朝廷との関係を改善し、連携して国難に当たっていこうと考えます。これが公武合体という流れです。その方法の一つとして、幕府は天皇の妹・和宮の降嫁を要望します。これに対し、岩倉は情勢をかんがみた上で、将来的に朝廷が内政を主導するにしても現在は幕府と朝廷が手を組んだ方がよいと考え、天皇の諮問に対して降嫁を許可するべきだと答えました。そして和宮降嫁に奔走します。
蟄居に追い込まれる
尊王攘夷派を掲げる長州藩が京都政局に影響力を及ぼすようになると、公武合体派である岩倉の立場は微妙なものになります。岩倉としては、全ては朝廷の権威回復のために政治活動を行ってきたのですが、尊王攘夷派からは皇妹を将軍家に売り渡した張本人として非難の目で見られてしまいました。また、安政の大獄のときに朝廷と幕府の関係改善を図ろうとした経緯から佐幕派として見られ、最終的に職を解かれ蟄居に追い込まれます。
王政復古の大号令で再び表舞台へ
蟄居に追い込まれた岩倉ですが、その後も政治意見書を書いて朝廷や薩摩の同志に送るなどの活動を行っていきます。もともと公武合体派だった岩倉ですが、この時期に薩摩藩と呼応する形で自身の立場を倒幕派に変えていました。そしてその高い政治能力を買われ、岩倉は再び表舞台に返り咲きます。薩摩の西郷隆盛や大久保利通とともに倒幕を目指す岩倉は、幼い新天皇への相談もなしに討幕の密勅を出すことに成功します。しかし、ぎりぎりのところで徳川慶喜が大政奉還を受け入れて政権を朝廷に返上したため、武力討幕の企ては失敗に終わりました。
しかし、政権を返上したといっても徳川家の勢力を残したままでは本当に幕府を倒したことにはならないと考えた岩倉たちは、神武天皇以来の天皇中心の国家への復帰を宣言する王政復古の大号令を決行。徳川家のもつ広大な領地を返上させ、従わなければ徳川家を武力征伐することを主張しました。その後の戊辰戦争で新政府軍は旧幕府軍に勝利、岩倉も新政府での立ち位置を強固なものにしていきます。
明治政府での岩倉具視
明治政府で岩倉具視は実質上のリーダーとして活躍を続けます。政権交代後の国を発展させるためのさまざまな事業に着手するとともに、欧米の優れた文明を学ぶため岩倉使節団を派遣しました。帰国後も征韓論、華族問題、立憲問題など生まれたての近代日本に起こるさまざまな議論・問題に対して先頭に立って処理します。
岩倉使節団を派遣
廃藩置県などの政策で国の体制を整備する一方、明治政府首脳陣は、欧米列強と日本の技術力・軍事力の違いを痛感していました。また、幕府時代に結んだ不平等条約の改正も明治政府にとっては大きな問題でした。そこで外務卿に就任した岩倉は、自らを特命全権大使として、伊藤博文や大久保利通ら新時代のリーダーたちを引き連れた大規模な使節団の欧米派遣を決定。目的は、不平等条約の改正にむけた予備交渉と、諸外国の制度などの見聞でした。ここで各リーダーが受けた刺激や情報が、その後の日本を形作る上で重要な役割を果たしました。
征韓論に対する考え方
欧米から帰国した岩倉たちを待っていたのは国内での征韓論の沸騰でした。征韓論は日本からの国書を拒否し、許しがたい存在となっている朝鮮に対し、軍事的に圧力をかけ、開国させようという考えです。欧米との差を目の当たりにした岩倉からしたらとんでもない論で、今は国力の充実に努めて少しでも欧米に近づくべき時であり、外征などしている場合ではないと強く反対します。一度は征韓論が認められましたが、太政大臣の三条が病で倒れたため、太政大臣代理となった岩倉が力づくで征韓論を退けました。
立憲問題
明治8年(1875)、明治天皇が国家立憲の政体に近づけていくという立憲政体の詔書を出したことで、憲法制定の議論が起こります。これは、三条実美・木戸孝允・板垣退助が奏上したものでしたが、国家が急激に変わることへのリスクから岩倉は反対の立場をとります。しかし、自由民権運動の高まりなどを経て、憲法制定の必要性を強く感じ始めます。問題は誰に憲法制定を任せるかでした。当時の岩倉を支えていたのは伊藤博文と大隈重信で、漸進派の伊藤はドイツ憲法を模範とした君主大権を温存する憲法を、急進派の大隈はイギリス流の議院内閣制の憲法を主張していました。最終的に岩倉は伊藤にまかせることに決め、憲法調査のため彼をヨーロッパに派遣しました。こうした彼の判断が、後の大日本帝国憲法の制定につながったのです。
しかし、岩倉は大日本帝国憲法の制定をその目で見ることはありませんでした。明治16年(1883年)7月20日、咽頭がんにより岩倉は59歳でこの世を去りました。7月25日には、日本初の国葬が執り行われています。
激動の時代を生きた人生
岩倉具視は幕末から明治にかけての激動の日本において時に持論を変えながら、さまざまな事業・事件に関わってきました。彼が近代日本の成立に多大な貢献をしたことはいうまでもないでしょう。激動の時代を生きた岩倉具視。その生き様は、現代にも語り継がれています。