皇女が皇族以外の男性に嫁ぐことを降嫁といいますが、日本史上、唯一武家に降嫁したのが和宮(かずのみや)です。相手は時の将軍だった徳川家茂で、1万人以上の行列をなしたという前代未聞の嫁入りを果たしています。 江戸時代、朝廷と幕府を結ぶこの異例の結婚にはどんな理由があったのでしょうか。
今回は、和宮の人となりや家茂との仲、大奥での生活についてご紹介します。
公武合体の流れと和宮降嫁とは
和宮降嫁は、幕府が打ち出した「公武合体」という構想の一部でした。その裏には幕府の思惑があったのです。
公武合体という政略結婚
公武合体とは、朝廷と幕府の絆を強めることで両者の対立を解消し、政治体制を安定させようという構想のことです。黒船が来航した当時、国内では海外貿易について意見が割れていました。しかし幕府は朝廷の承諾なしに日米修好通商条約に調印、そのため尊王攘夷派志士たちの反発を招き、朝廷との関係も悪化してしまいます。当時の幕府は弱体化しており、幕藩体制の立て直しや権威回復、尊王攘夷派勢力の非難から逃れたいという思惑がありました。そこで発案されたのが公武合体だったのです。
幕府はその具体的な成果として、将軍家茂の正室として和宮の降嫁を求めました。政略結婚は珍しいことではありませんが、和宮降嫁についてはこのように国の命運を握るほど重大なものだったのです。
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降嫁前の和宮はどんな人?
和宮は、弘化3年(1846)に仁孝天皇の第八皇女として京都御所の橋本邸で産まれました。異母兄である孝明天皇により名付けられた彼女は、小柄で華奢な女性だったようです。
嘉永4年(1851)、まだ幼い和宮は、兄の命令により有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。本来であれば、この時点で彼女の将来は決まっていました。有栖川宮熾仁親王は明治維新後も軍人として明治天皇を支えながら活躍した人物なので、もし和宮が降嫁しなかったらだいぶ違った人生を歩んでいたことでしょう。
和宮と家茂の結婚について
幕府から申し出があった和宮降嫁ですが、孝明天皇は当初この話を断っています。許嫁がいるのだから当然のことですよね。しかし度重なる要請と侍従・岩倉具視の意見もあり、攘夷を実行し鎖国に戻すならと降嫁を許可します。
和宮はこの話を辞退しましたが、既に幕府と約束していた孝明天皇から「ならば生まれたばかりの1歳の寿万宮(すまのみや)を降嫁させる。私は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺で尼にならなければならない」と説得され、降嫁を受け入れました。
和宮は降嫁にあたってさまざまな条件を出していますが、結婚か尼かという理不尽な二者択一を迫られた彼女にとって、これは当然のことだったのかもしれません。孝明天皇も「和宮の条件を遵守するように」と幕府側に告げています。
■和宮が出した条件
- 仁孝天皇(父)の十七回忌の後に関東に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること。
- 大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること。
- 御所の女官をお側付きとすること。
- 御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること。
- 御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。
徳川家茂と和宮は仲が良かった!
政略結婚に泣く泣く同意した和宮ですが、夫婦仲は良かったといわれています。結婚当時の家茂は十代半ばの若者でしたが、優しく誠実な人柄で、贈り物をしたり手紙を送ったりと和宮を気遣っていたそうです。そんな家茂に和宮もだんだんと心惹かれていったのでしょう。
側室を持たなかった家茂
将軍といえば側室がつきものですが、家茂は生涯側室をもちませんでした。和宮を一途に愛したとは心温まるエピソードですね。 和宮の降嫁が決定した頃、世間では「幕府は和宮を人質にして天皇に譲位させるつもりだろう」という噂が流れていました。これに対し家茂は、和宮降嫁に関して二心はないと朝廷に誓紙を提出しています。これは和宮を妻として大切にするという誓いでもありました。
また長州征伐に出向く際、家茂は和宮に「凱旋の土産はなにがいいか」と聞いています。家茂はこの遠征中に病死してしまいますが、和宮が欲しがった西陣織は約束通り彼女の元に届いたといいます。戦いの最中でも妻へのプレゼントを忘れないところに、和宮への深い愛を感じますよね。
和宮はこの西陣織を徳川家の菩提寺である増上寺に奉納しました。その際に添えられた和歌には切なさが漂います。
「空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」
(せっかく綺麗な着物が届いても見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるのでしょう)
この時の西陣織はのちに袈裟に仕立てられ、現在でも「空蝉の袈裟」として伝わっています。
家茂のためにお百度参りをした和宮
文久3年(1863)家茂は上洛のため江戸を出ました。この際、和宮は夫の無事を祈ってお百度参りをしています。同年に再び上洛の要請があったときもお百度参りをしていますので、よほど家茂が心配だったのでしょう。和宮は朝廷に対し、用が済んだら速やかに将軍を江戸に帰還させるよう願い出ています。また、上洛の際に海路で行くことを聞くと、陸路に変更するよう進言したこともあるようです。和宮にとって家茂がどれだけ大切な存在だったかがよくわかりますね。
早すぎた夫の死…
結婚に関して紆余曲折あった和宮ですが、夫・家茂との結婚生活はわずか4年と短いものでした。同年末には兄の孝明天皇も崩御し、前年には生母も亡くなっています。大切な人々を次々と失った和宮の悲しみは、想像を絶するものだったのでしょう。
家茂が亡くなり慶喜が将軍になりますが、時代の流れは倒幕へと向かっていきます。そんな中、残された和宮は徳川家の人間として江戸城の無血開城に力を尽くしました。彼女がこの事態に凛と立ち向かうことができたのは、亡き家茂との絆があったからかもしれませんね。
涙に濡れた大奥での生活
家茂との関係は良好だった和宮ですが、大奥にはなかなか馴染めずつらい思いをしたようです。
御所風の生活を望むも?
和宮が大奥に入ったのは、江戸に到着してから1カ月ほど経った後のことでした。和宮降嫁にはいろいろな条件がありましたが、その一つに「御所風の暮らし」があります。この調整が難航したため時間がかかってしまったのです。
大奥での和宮の暮らしは、側近・庭田嗣子の書状によって明らかにされました。それによると、御所風の暮らしはほとんど遵守されておらず、部屋は狭くて暗く、また、大奥の女性たちと反りが合わず和宮が泣いたこともあったようです。
天璋院と折り合いが悪かった!
大奥を仕切っていた天璋院(てんしょういん/篤姫)とは仲が悪かったようです。上座に座ったまま会釈もしない天璋院に対し、和宮には敷物すらなかったのだとか……。
先代の将軍・家定の正室である天璋院は、次期将軍として慶喜を推すよう命令を受けていたものの、最終的には家茂を担ぎました。どうやら家茂のことを息子のように可愛がっていたようで、上洛の際にもかなり身を案じています。そんな家茂の妻としてやってきた和宮ですから、嫁姑に似た関係性があったのでしょう。婚儀の際に、和宮の地位が高いことにより、将軍が頭を下げるという異例のパターンになったことも気に入らなかったのかもしれません。
しかし明治維新後は和解し、一緒に食事や観劇をしたようです。当初は険悪だった二人ですが、徳川家存続の危機に陥ったときは共に奔走したこともあり、最後には「同じ徳川に嫁いだ女性」という絆が生まれたのかもしれませんね。
2人は並んで眠る
和宮は32歳という若さでその生涯を終え、遺言により家茂の隣に葬られました。後年の調査によれば、和宮の棺には家茂とみられる男性が映ったガラス片が入っていたそうです。政略結婚とはいえ仲睦まじかった家茂と和宮。今も二人で安らかに眠っているのです。