幕末・明治にかけて活躍した偉人である西郷隆盛。実はこの“隆盛”という名が彼の本名ではないことをご存じでしょうか?今回は、西郷隆盛の本名と当時の名前への考えや使われ方、西郷の本名が間違って知られている経緯についてご紹介します。
西郷隆盛は本名ではなかった?
ドラマや小説でもよく取り上げられ、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の西郷隆盛。しかし、この有名な「隆盛」という名前は本名でなかったという事実はあまり知られていません。
西郷隆盛の本名とは
西郷隆盛の本名は、西郷隆永(たかなが)です。当時の武士や身分の高い人は「諱(いみな)」と呼ばれる特別な名前を持っていました。日常会話などではあまり使われませんが、元服時につけられる大切な名前でした。「隆永」は西郷の諱で、通称として吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助などがありました。
西郷隆盛の名前の変遷
西郷は幼名を小吉といいました。小吉は代々西郷家の嫡男が名乗るものです。その後、元服で諱の隆永を与えられますが、通称としては吉之介を名乗ります。その後は、家督を相続する際に善兵衛に、さらに父の通称を襲名し吉兵衛と変わっています。奄美大島では先祖である菊池氏に由来する菊池源吾を名乗りますが、薩摩藩からは西郷三助と名乗るように命じられていました。奄美大島から鹿児島に戻った頃には、大島三右衛門を使用しています。沖永良部では大島吉之助としますが、再び西郷の性に戻し西郷吉之助としました。さらに、討幕の密勅へ署名するときには、諱を武雄に変えています。この他にも、南洲翁遺訓で知られる南洲翁も西郷の雅号(号)です。このように西郷には多くの名前があったのです。
西郷の弟:従道も本名ではない
西郷隆盛には6人の弟妹がいますが、最も高名なのは西郷従道(つぐみち/じゅうどう)です。隆盛が西南戦争で戦死した後も海軍大将・元帥など明治政府の重要なポストを歴任しました。実は彼の名前も本名ではなく、間違って登録されてしまった名前でした。正しい名前については諸説あり、隆道(りゅうどう)とも隆興(りゅうこう)ともいわれています。
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昔の人の名前はいろいろあった
今の日本では戸籍に名前は一人に一つというルールがありますが、この時代の人はさまざまな名前を持っていました。名前には諱や通称、元服前の幼名などがあり、場面や呼ぶ人によって使い分けられます。歴史上の人物で現在知られている名前は諱である場合が多くなっていますが、生存当時はその名前で呼ばれることは稀でした。他にも変名や雅号(号)など、さまざまな名前が使われています。ここからは、それぞれの名前についてみてみましょう。
諱について知ろう!
諱とは昔の身分の高い人がもつ実名のことです。元服(当時の武士の成人式)の際に、それまでの幼名に変わってつけられます。実はこの諱という名前、日常生活で使われることはほとんどありませんでした。現在では親しい友達を下の名前で呼ぶことは普通のことですが、この当時、日常生活で諱を呼ぶことは大変失礼なことと考えられ、通常は通称(西郷隆盛の場合は吉之助)で呼ばれていました。親が子どもを呼ぶ時や、主君が配下に呼びかける時など限定された場でこの諱という名前は使われていたのです。もともと漢字圏では本名はその人の霊的な人格とつながりが深く、名前を知られることは霊的人格の支配権を渡してしまうに等しいと考えられていました。それが名前を呼ぶのが失礼という考え方につながっていき、本名と普段使われる名前を分けるという慣習につながっています。
多くの名前を持つ人たちがいた
日本史上で様々な名前をもつ代表的な人物としては、桂小五郎や伊藤博文らが挙げられます。桂小五郎は明治以後、木戸孝允という名前を使っていました。彼は幼少時に桂家に養子として出されたのですが、明治以後に使った孝允は桂家の当主を引き継いだときにつけられた諱で、小五郎という名前は生家の先祖から受け継いだ通称でした。木戸という姓は主君の毛利敬親より第二次長州征討直前に与えられたものです。また、幕末期に幕府から倒幕勢力としてにらまれていた彼は、役人の目をごまかすために木戸貫治など数々の変名を使いました。
伊藤博文も多くの名前を持つことで知られており、博文は諱で、通称としては吉田松陰から送られた俊輔を名乗っていました。しかし、これも後に春輔に改名しています。
その他にも、越智斧太郎や花山春太郎といった変名や、雅号(号)として春畝や、小田原の滄浪閣を所有していたことから滄浪閣主人とも称していました。当時の名前には先祖伝来のものや師匠などから送られたもの、ときには身を守るためといったさまざまな理由があったのですね。
隆永が隆盛になった訳
西郷の本当の名前は隆永というのはご紹介しましたが、なぜ隆盛という名前が後世に伝わってしまったのでしょうか。その理由についてみていきましょう。
吉井友実が本名を間違えた
西郷は明治維新の功績により明治天皇により位階を賜ることになりました。位階とは、歴史上の偉人が功績に応じてつけられている正◯◯位や従××位などの栄転の一種です。その届出の際、西郷が不在だったため、親友の吉井友実が代理で届出ますが、元々使わない諱のことなので、吉井は間違えて西郷の父親の本名である「隆盛」で申し出てしまったのです。
明治天皇に位階を授かってしまい……
吉井の間違いが訂正されないまま位階が正式に授与されてしまったため、位階の名前は「隆盛」で登録されてしまいます。位階は歴史上の偉人(織田信長や徳川家康も授与されています)が天皇から頂く大変有り難いものですので、西郷は天皇への配慮もあり、位階を授与されて以降は元々の名前である隆永の使用をやめて隆盛を使い続けました。そのため、その後の公式の記録でも西郷隆永ではなく西郷隆盛として記されているのです。
おおらかな性格だった隆盛
西郷隆盛は歴史上でも人気のある人物ですが、当時の維新志士や薩摩隼人たちからも慕われていました。その理由の一つは、細かいことや自分の利益にこだわらず、たいていのものを受入れてしまうおおらかな性格だったことが挙げられます。自分の正式な名前に固執するよりも、いったん友人が届出てしまったものは受け入れてしまおうという考えだったのかも知れません。また、明治天皇からせっかく頂いた位階の名前を使わないというのは恐れ多いという配慮もあったのでしょう。その結果、西郷の名前は隆盛として歴史に記憶されるに至ったのでした。
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