歴人マガジン

【真珠の島の真珠王】日本産ジュエラーの父・御木本幸吉の生涯

【真珠の島の真珠王】日本産ジュエラーの父・御木本幸吉の生涯

2018年は明治元年から150年となる節目の年。これを記念し、明治時代に活躍した起業家たちを紹介する連載「明治の企業家列伝」がスタート。第3回は、”真珠王(pearl king)”と呼ばれたミキモトの創業者・御木本幸吉(みきもと こうきち)です。


伝統があり、人気もあるジュエラー(宝石商)といってすぐに思い出すのはティファニーやカルティエ。最近では芸能人などのセレブが婚約指輪に使うことの多いハリー・ウィンストンなども有名です。けれども、それらはいずれも外国のブランド。それでは日本の宝飾品は?と聞かれたら、やはりミキモトの真珠を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。記念日などにミキモトの製品を贈ったり贈られたりした経験をお持ちの方も少なくないでしょう。そんなミキモトを一大ブランドに導いた日本産真珠の祖・御木本幸吉の生涯とは?

貧しいうどん屋のせがれには商才があった!?

真珠養殖に使用されるアコヤ貝

2017年(平成29年)の秋、日本を訪問したトランプ米大統領のメラニア夫人を案内して安倍昭恵総理大臣夫人が訪れたのは東京・銀座の宝飾品店「ミキモト銀座4丁目本店」でした。残念ながら購⼊はしなかったようですが、真珠のつくり⽅などについて説明を受けたとのこと。

さかのぼること90年以上前、1923年(大正23年)当時の皇太子(のちの昭和天皇)ご成婚の際、妃殿下になる良子(ながこ)女王(のちの香淳皇后)の洋装時の宝飾品のすべてを任されることになったのが、当時銀座に店をかまえていたミキモトの祖・御木本幸吉でした。これまでは洋装時の宝飾品は外国製品を使うことが多く、幸吉は初めての国産品使用の栄誉を受けることになったのです。

そんな幸吉ではありましたが、ここに至るまでには大変長い道のりがあったのでした。そもそも真珠は貝の体内で生成される生体鉱物(バイオミネラル)で、貝殻成分を分泌する外套膜が、貝の体内に偶然に入りこむことで生まれます。いわば貝殻に近いために安定した供給が難しく「奇跡の宝石」と呼ばれるほどです。それを幸吉は養殖によって安定生産させることをめざしたのです。

幸吉は1858年(安政5年)に志摩半島にある現在の三重県鳥羽町に生まれました。幼名は吉松(よしまつ)。うどんの製造が家業でしたが、父が病に伏せたため、幼い吉松が商売をすることになりました。ですが、うどんでは儲からないと考えた吉松は、青物の行商も行うことにしました。貧しい少年は生粋の商売人だったというわけです。しかし、商売だけではなく勉強も欠かしませんでした。同じく貧しい友人らと勉強会を重ねて学を身につける努力をするほどの根気も備わっていたのです。

1878年(明治11年)に成人して「幸吉」と名を改めたころ、縁あって上京し、さまざまなものを見聞する機会に恵まれました。そこで目にしたものは、志摩半島で育った幸吉には身近な海産物が盛んに売買されていること。なかでも真珠が外国人に人気を誇っている様子は、幸吉に大きな衝撃を与えました。短期間の滞在でしたが、幸吉の運命を変えた旅だったといえるでしょう。

その後、幸吉は海産物など志摩半島の特産品の商いを始め、三重県での海産物取り組みにおける重要なポストにつくまでに至ります。「殖産興業」という時代の波に乗ったのです。主に中国を相手にした海産物(寒天や干しアワビなど)の輸入を手がけましたが、よい時ばかりではなく、それなりに失敗もしています。しかし幸吉のあくなき商売心がすたれることはありませんでした。

「真珠を自分たちの手で」こころざしを同じくする仲間を知る

幸吉が養殖場をつくった英虞湾

幸吉と同じ志摩半島の志島という土地に、小川小太郎(おがわ・こたろう)という青年がいました。水産物加工業を手広く営む家の跡取りで、真珠の取引に強い関心を持ち、1887年(明治20年)、22歳の折には真珠貝の養殖を手がけました。これは幸吉よりも1、2年早かったといわれており、現存する書簡等から、幸吉が小太郎に一目置いていたことがわかっています。また、1888年(明治21年)には大日本水産会幹事長の柳楢悦(やなぎ・ならよし)に幸吉は小太郎を引き合わせています。こうして地域ぐるみによる真珠養殖を試みようとした矢先、1889年(明治22年)に小太郎は腸チフスにかかり、24歳という若さで帰らぬこととなりました。亡くなった小太郎も、そして幸吉も、いかに無念だったことでしょうか。

小太郎の遺志を継ぐ意味もあったのか、幸吉は真珠の養殖に一層取り組むようになりました。当時、日本産の真珠は絶対数が少なく貴重なもので、鑑定眼を持った人材も少なかったのです。幸吉は養殖による数の増加とたしかな鑑定眼の養成のため、英虞湾の神明浦という場所に養殖場をつくりました。神明浦の漁民たちを説得するのは骨が折れるかと思われましたが、海軍大佐を務めた経験を持つ柳の権威と、幸吉の雄弁さで企画は実現に至ることになります。神明浦の養殖場の運用は1888年(明治21年)9月に始まりました。しかし、縄に小枝や石、瓦などをつるして付着させようとしたものの、縄は絶えず海藻やフジツボに荒らされてしまいます。いちばんの天敵は稚貝を食い荒らすヒトデでした。しかし、12月になりようやく稚貝が荒らされずに縄に付着。「できるわけがない」と後ろ指を指されることもあった幸吉の真珠養殖は日の目を見始めます。

しかし、真珠養殖の難しいところは、貝の養殖がゴールではない点です。真珠貝から真珠が生み出されなければ意味がないのです。その割合は高くて数百個に1個、低ければ1,000個に1個という気の遠くなるような数字です。ようやく産出された1個とて、宝飾品としての価値を持つものかどうかは約束されていないのでした。しかし、それゆえに養殖の研究をしている人物も数名おり、ある時幸吉は柳から東京帝国大学の箕作佳吉(みつくり・かきち)博士を紹介されます。彼は神奈川県の三崎で同僚らと真珠貝、さらには真珠そのものの養殖の実験と研究を行っていた人物でした。

「ついに見つけた!」貝の中に光る美しく白い珠

幸吉は、農商務省の技師・山本由方を雇い入れるとともに、箕作博士の教えを乞うことにしました。そしてさらに実験を続けたものの、1892年(明治25年)には赤潮によって全滅に見舞われる事態に。それでも幸吉は落ち込むことはありませんでした。1893年(明治26年)、妻・うめと貝を拾って一つずつ点検していたところ、うめの開いた貝の一つから白く輝く真珠が見つかったのです。幸吉が真珠養殖を初めて3年、35歳のことです。この3年間、まったく収入の途絶えていた幸吉にとって、どれほどうれしかったことでしょうか。

真珠養殖が一応の成功を見たことで、幸吉はさらに神明浦の養殖場を拡大しようとします。しかし、漁民との交渉はやはり難題でした。幸吉は地元の祭りに参加するなどして人々の懐に飛び込み、海女を当地から採用することなどを条件に、6万坪の御木本真珠養殖場を発足させました。神明浦の無人島・田徳島を切り開き、そこに移り住んだのです。また、同時に御木本真珠会社を設立しました。さらに、1894年(明治27年)には「御木本式真珠」と呼ばれる貝付半円真珠の特許を得て、養殖事業を独占するに至ったのでした。
※養殖真珠には全円(真円)と半円(半形)、無核があり、半円では外套膜と貝殻の間に半球形の核を挿入してその上に真珠層を作らせて貝殻から切り離して加工します。

やがて養殖技術が確立し、1900年(明治33年)には採取量は4,200個、当時の価格で8,400円に上るようになりました。また、それに先んじて明治天皇に真珠を献上する栄誉にも恵まれました。さらに事業を拡大するために幸吉は東京に進出することにします。銀座に実弟の斎藤新吉を主任として「御木本真珠店」を開店したのです。国内最大の消費地であり、最先端の文化がある東京で真珠の価値を広げたいという幸吉の思いがありました。最初は小さな店でしたが年を追うごとに拡大し、やがて銀座の表通りに店をかまえるまでになりました。

世界へ羽ばたく御木本の真珠

晩年の御木本幸吉(画像:国立子会図書館)

1902年(明治35年)に、元帥の称号を持ち、日本赤十字社社長、大日本水産会会頭も歴任した小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王が明治天皇の名代として渡英することになりました。この時、親王は贈答品として御木本の真珠を買い上げます。以前、親王は養殖場を見学に訪れたことがあったので、その縁もあったのでしょう。御木本の真珠はパリへ持ち込まれて加工され、イギリス王室へ贈られたのです。御木本の真珠が世界デビューした瞬間でした。商売を始めたころからの念願であった海外との貿易がついに達成されたのです。

それ以後、御木本では海外の博覧会に養殖真珠をさかんに出品し、あらゆる賞を受けています。そして、ついに1911年(明治44年)にロンドンの宝石市場ハットン=ガーデンのダイヤモンド=ハウスに現地の業者と共同で支店を設け、ここを欧米各地への出店の足がかりとしました。一方で、幸吉は真珠そのものだけではなく、貴金属加工も行うことでさらに利益を増すことを考えます。そのために貴金属加工場を東京に建設して技術者を雇い入れ、宝飾品取扱業者として御木本はさらに飛躍してゆくのでした。

しかし、御木本の発展をよく思わない人もあたりまえのように現れました。前述の特許権に異を唱える派閥の出現です。ある時には刑事事件にまで発展したこともありました。幸吉は新しい方法も開発して特許をとろうとしたが、なかなかうまい具合には進みません。そこで研究を重ねて当初の「半円真珠養殖法」を進化させた「全円真珠養殖法」を確立し、特許取得を果たします。こうして幸吉はライバルから先んじることで難を逃れたのでした。

貴金属加工の面でも、のちに日本の宝石学の先駆と言われる久米武夫や小林力哉といった人物をロンドンやパリに滞在させ、ガラード、ショーメ、カルティエなどの有名宝石店を見学させ勉強させました。世界に通じるデザインの宝飾品づくりを着々と進めていったのです。これは「ミキモト」ブランドの確立ということをも意味することだったともいえるでしょう。

他の産業と同じく、太平洋戦争中には工場が戦火にあったり、操業停止を余儀なくされたりするなどしています。しかし、戦後すぐに再開、とくに占領軍の将校などから人気を誇って外貨の獲得に成功したため、1953年(昭和28年)にはついに売り上げが1億円を突破しました。このころまでには横浜のホテルニューグランドや伊勢丹新宿店に出店し、銀座の本店も3階建てのビルになりました。

戦争が終わって9年、「パール=キング=ミキモト」としてその名を世界にとどろかせ、真珠養殖に一生をかけた御木本幸吉にも生涯を終える日が来ました。1954年(昭和29年)9月、96歳の幸吉は永眠。戒名は「真寿院殿王誉辛未道無二大居士」、亡くなっても「しんじゅ」とともに幸吉の魂はあるといえるでしょう。

高度成長期には文化の庶民化などや、真珠への需要が落ち込んだことから、御木本は経営難に陥ったこともありました。打開策として1972年(昭和47年)に社名は株式会社ミキモトへ変更され、真珠だけではなくダイヤモンドや色石などの貴石商品も扱う総合宝飾店になりました。アジアなどに新しい商圏を開拓し、いまでは安定した営業を行っています。さまざまなものを手がけるようになっても、ミキモトといえばやはり真珠。その白い輝きは人の心を永遠に清らかでいさせてくれるような気がします。幸吉もおそらく同じような気持ちでいたのではないでしょうか。

かつて幸吉は明治天皇に拝謁した際「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」とのたまったそうです。そのとおり、冠婚葬祭、さまざまな場所で女性のネックレスには真珠(パール)があしらわれています。大言壮語も目立ったという幸吉ですが、真珠への思いと信念がなければ「MIKIMOTO(ミキモト)」は日本を代表するジュエラーになれなかったかもしれません。

真珠王の魂に出会える場所

ミキモト真珠島

三重県鳥羽市の鳥羽湾にはミキモト真珠島 (しんじゅしま)と呼ばれる小島があります。以前は相島(おじま)と呼ばれており、ここでも幸吉は真珠を養殖していました。博物館などのあるレジャースポットで、真珠のこと、真珠養殖のこと、そして御木本幸吉の生涯を学ぶことができます。海女の実演なども見ものです。

また、昨年建て替えが完了した「ミキモト銀座4丁目本店」は建築家の内藤廣(ないとう・ひろし)氏がファサードのデザインを手がけ、「春の海の輝き」をイメージしたという約4万個のガラスピースが使用されています。その建築の美しさは、ミキモトのめざす高貴さそのもの。一見の価値があります。

御木本真珠島、ミキモト銀座4丁目本店ともに、機会があればぜひ訪れ、真珠づくりに生涯をささげた御木本幸吉の魂と真珠の美しさを肌で感じてみてはいかがでしょうか。白くて丸い小さな粒には、おどろくほどたくさんの思いが詰まっているのです。

<参考サイト>
ミキモトの歴史 ミキモトについて(MIKIMOTO)
ミキモト真珠島(MIKIMOTO PEARL ISLAND)

 

連載「明治の企業家列伝」
第1回【「死の商人」か「世紀の大商人」か】真実の大倉喜八郎とは?
第2回【やってみなはれ】サントリーを育んだ鳥井信治郎のチャレンジ精神とは

Return Top