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【顕如=本願寺光佐に迫る】一向宗の最盛と信長による圧力

【顕如=本願寺光佐に迫る】一向宗の最盛と信長による圧力

武将らが天下統一を夢見ていた戦国時代は、寺社も大きな権力を持っていました。特に一向宗と呼ばれた本願寺教団による一揆には多くの武将が手を焼いており、織田信長もその脅威に対し強い圧力をかけて戦っています。今回は、これほどの力を持っていた一向宗とはどんな教団だったのか、その最盛期を率いた顕如(けんにょ)について解説します。

石山本願寺で最盛を極めた!

本願寺光佐
本願寺光佐の肖像。この絵は、江戸時代頃に描かれたもののようです。

現在でもいくつかの仏教の宗派がありますが、この当時栄えていた教団の一つが、石山本願寺を中心とした浄土真宗本願寺勢力(=一向宗)です。その住職を務めていたのが顕如(本願寺光佐/ほんがんじこうさ)でした。

本願寺顕如と一向宗

顕如は浄土真宗本願寺の第11世宗主で、父・証如の長男として摂津で生まれました。よく知られている顕如は号で、諱を光佐といい、法主を務めた寺号の本願寺を冠して本願寺光佐と呼ばれています。僧職を継承した顕如は、祖母の慶寿院(鎮永)の補佐を受けながら教団を運営していきました。

焼き討ちにより焼失した山科本願寺から移動してきた教団の新しい本山・石山本願寺は、周辺に10個もの寺内町が形成されるほど栄えました。この本願寺勢力は、浄土真宗の他の宗派と区別するために一向宗と呼ばれていました(注:本願寺教団自身はこの名を自称していなかったようです)。教団の団結力は非常に強く、やがて門徒らは不満を持つ人々と共に「一向一揆」と呼ばれる反乱を起こすようになり、その脅威は多くの大名が禁教令を出すほどでした。

政略結婚をした顕如

多くの門徒を抱え一向宗を率いていた顕如は、15歳の時に左大臣・三条公頼の娘である如春尼(にょしゅんに)と政略結婚をしました。如春尼の実姉は武田信玄の正室・三条の方なので、顕如と信玄は義理の兄弟ということになります。当時は政略結婚が普通のことだったので顕如も例外ではありませんが、二人の場合は夫婦仲が良く、長男・教如、次男・顕尊、三男・准如と三人の子供にも恵まれました。
このような政略結婚によって公家と親戚関係を築いたり、管領・細川家と仲を深めたりした本願寺は、まさに大名と同等の権力を得ていったのです。

信長の圧力と一向一揆

三河一向一揆の図
三河一向一揆の図。永禄6年(1563)に起こりました。

一向宗門徒による「一向一揆」は畿内を中心に展開していきました。加賀一揆で守護・富樫政親を自殺させ加賀国を支配した彼らは、その後も徳川家康柴田勝家ら名だたる武将と戦います。もちろん、織田信長も例外ではありませんでした。

天下統一を狙う信長は彼らに圧力をかけるようになりますが、顕如の対応はどのようなものだったのでしょうか。

織田信長による圧力とは?

もともと顕如は信長に対し低姿勢でした。自ら挨拶に出向き、大金を納めるよう命令された際もすぐに対応したほどです。しかし、信長の要求は徐々にエスカレートし、本願寺が何かする際は必ず織田軍の許可を得るよう命じてきました。まるで家臣のようなこの扱いには、さすがの顕如も不快感を覚えたようです。

この頃の信長は、自分が権力を得る契機となった15代将軍・足利義昭に対しても同様の要求を突きつけたため、仲が悪化していました。その義昭が本願寺に助けを求めてきたことで、顕如は信長との戦いを決意し、全国の門徒たちに信長征伐を指示します。

石山本願寺に篭城

信長が畿内に影響力を広げ始めると顕如がその陣営を攻撃し、10年に及ぶ「石山合戦」が始まりました。顕如は武田家、朝倉家、浅井家、毛利家と共に信長包囲網の一端を担い、各地で一揆を起こしながら自らは石山本願寺に籠城して戦います。これは顕如が有力武将やその家臣団と並ぶほど力を持っていたことが良く分かるエピソードです。顕如率いる一向宗勢力は、織田家にとっても手強い相手でした。

一向一揆を起こす

『太平記長嶋合戦』に描かれた長島一揆
錦絵の『太平記長嶋合戦』に描かれた長島一揆。

顕如は友好を結んでいる土豪勢力・雑賀衆と協力し、地方の本願寺門徒を動員した一向一揆などで信長に対抗しました。中でも伊勢長島を中心とした長島一揆は、信長との間に三度もの激しい戦いを起こしたことで有名です。本願寺第8世法主である蓮如の六男・蓮淳が住職を務める長島願証寺を拠点としたこの一揆では、信長の弟・信興を自殺させた上、5万人もの織田軍に勝利しています。
しかしその後、8万人の織田軍から攻撃を受けたことで、数か月の抵抗もむなしく、戦いは終結しました。

信長亡き後の晩年

顕如
顕如を描いた画像(石川県立歴史博物館所蔵)。僧侶でありながら、武将といった雰囲気です。

激しい戦いを繰り広げてきた顕如と信長ですが、本能寺の変で信長が命を落とした後、顕如はどう変化していったのでしょうか。

豊臣秀吉との和睦

信長の死後、顕如は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と和睦を図りました。秀吉は石山本願寺の寺内町をもとに大坂城と城下町を整備すると、石山の北にある天満を寺地として寄進し天満本願寺を建てます。この地では住居に壁・堀などを作ることを禁じていたため、秀吉による強い統制があったことが伺えるでしょう。

大僧正になったが・・・

一方、顕如自身はどうだったかというと、秀吉の庇護のもと大僧正にまで昇りつめました。しかし、天正17年(1589)には、聚楽第(じゅらくてい)の壁に政権批判の落書きをした犯人が本願寺の寺内町に逃げ込んだとされ、秀吉から厳しい処分が下されます。天満町の人が磔(はりつけ)にされたほか、蓮如の孫・願得寺顕悟が自害を求められ、顕如も激しい叱責を受けました。

天正19年(1591)には秀吉によって京都七条堀川へ移転させられ、本願寺(西本願寺)を建立します。顕如はここで教団の再興を試みようとしましたが、天正20年(1592)11月24日に帰らぬ人となりました。

顕如の没後、東西に別れる

彼の死後、秀吉と和睦した顕如の意思を引き継ぐ三男・准如と、それに反対していた長男・教如が対立を深めます。教如は徳川家康から寄進された土地に東本願寺を設立して独立、一方の准如は12世宗主となって西本願寺を率いることとなりました。顕如によって隆盛を極めた本願寺は、こうして東西へと別れていったのです。

 

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