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【シャクシャインの戦い】アイヌ民族と松前藩が対立した背景とは

【シャクシャインの戦い】アイヌ民族と松前藩が対立した背景とは

みなさんは「シャクシャインの戦い」という出来事をご存じですか。もしかしたら、日本史の授業で触れたかもしれませんね。なんとなく興味を引かれる、エキゾチックな言葉の響きですが、その出来事の全貌についてはあまり知られていません。シャクシャインの戦いとは何だったのか、そしてシャクシャインとはどんな人物だったのでしょうか。今回は、約350年前に現在の北海道で起きた戦いの背景と経緯についてご紹介します。

シャクシャインの戦いとは?

アイヌの像
アイヌ民族はいくつかの集団に分かれていました。

シャクシャインとは、アイヌのある集団の首長の名前です。彼は、江戸時代初期に松前藩、現在の北海道を支配していた藩に対して反乱を起こしました。シャクシャインが中心となって起こした反乱なので、その戦いが彼の名をもって呼ばれています。まずは、シャクシャインと彼らの戦いについて概要を見ていきましょう。

シャクシャインとはどんな人物なのか

シャクシャインは、は江戸時代前期に現在の北海道日高地方を拠点とするメナシクルという集団を率いていました。彼は当時、アイヌを実質的に支配していた松前藩に対し、寛文9年(1669)6月に蝦夷地でアイヌ諸氏族を糾合して反乱を起こします。この蜂起はシャクシャインの戦いと呼ばれ、彼はアイヌ民族で最も有名な人物の一人となったのです。

アイヌ民族による大規模な反乱だった

シャクシャインの戦いは、幕府側の記録では「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれています。この戦いはシャクシャインと彼が率いる氏族だけでなく、現在の釧路から増毛(ましけ)周辺の氏族も巻き込み、日本列島の大多数を占める大和民族(和人/わじん)に対する大規模なアイヌ民族の反乱となりました。

戦いに至った経緯と背景

多くのアイヌが蜂起したシャクシャインの戦いは、どのようにして発生したのでしょうか。戦いが起きた経緯と背景について解説します。

アイヌ民族間に対立があった

当時、蝦夷地全域に住んでいたアイヌ民族。一口に「アイヌ民族」といっても一枚岩ではなく、地域によってさまざまな集団が存在していたため、アイヌ民族間でも争いが起きていました。シャクシャインの率いていた集団であるメナシクルは、先代の首長のカモクタインをシュムクルと呼ばれる集団に殺されてしまいます。後にシャクシャインは報復のため、シュムクルの首長であるオニビシを殺害したのでした。そこでシュムクルの人々は、さらなる報復のため松前藩に武器の貸与を求めましたが、断られたうえに武器貸与の要求を伝えた使者のウタフが帰り道に死んでしまいます。このウタフの死が松前藩による毒殺とする風説が流れ、アイヌの諸集団は松前藩に対抗するため団結に向かっていくのです。この一連の出来事が、シャクシャインの戦いにつながる重大なきっかけとなりました。

松前藩が交易を独占した

鮭とば
アイヌの重要な物産の一つである鮭とばです。

江戸時代に幕藩体制が成立する前、アイヌは現在の東北地方まで自由に交易に訪れ、蝦夷地の物産と鉄器、米、漆器などを交換していました。ところが江戸幕府は藩に対する支配を強化し、アイヌ交易は松前藩の独占とする旨を決定します。この制度変更によって、交易の条件がアイヌ側に極端に不利になってしまっただけでなく、松前藩は商場知行制(あきないばちぎょうせい)という制度によってアイヌ側が交易できる人物を限定し、アイヌ側がさらに不利になるような交易環境をつくりあげたのです。交易に応じないアイヌには子どもを人質に取って脅すなどの強硬策を実施したため、和人に対してアイヌの不満は日増しに大きくなります。松前藩によるこうした交易政策も、シャクシャインの戦いにつながる重要な背景といえるでしょう。

シャクシャインの戦いとその後

同じ民族間で反目がある一方、松前藩の独占という不利な交易条件によって追いつめられていったアイヌ。そのような背景があった蝦夷地において、ついにシャクシャインの戦いが起きてしまいます。その戦いの経緯とその後はどのようなものだったのでしょうか。

アイヌの蜂起と松前藩の反撃

アイヌの男性
ひげを生やしたアイヌ民族の男性。

独占交易によって苦しめられ、シュムクルの使者の死亡といった事件を経て団結しつつあったアイヌは、シャクシャインの呼びかけによって蜂起し、各地で和人を襲撃し殺害します。これに対して松前藩は、家老がシャクシャイン軍を迎え撃つために兵を率いて出陣しつつ、幕府に急報し援軍を求めました。幕府は東北3藩に出兵を命じ、松前藩勢とアイヌ軍は激突したのです。戦意に勝るシャクシャイン軍ですが、武器の性能の差で徐々に押されていきます。加えて松前藩がもともと関係の深かったアイヌに対して、幕府権力や武力を背景に圧力をかけた結果、アイヌの中からシャクシャインに協力しない集落が出てきたため、シャクシャイン軍はますます不利に陥りました。

和睦の席で殺されたシャクシャイン

松前藩側の有利で戦いは進みますが、シャクシャインは徹底抗戦の構えを見せます。戦いの長期化による交易の中断と幕府による処罰を恐れた松前藩は、和睦に見せかけてシャクシャインを謀殺しようと画策しました。戦況が不利になっていたこともあり和睦に応じたシャクシャインは、松前藩の計略にはまり、現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で殺害されてしまいます。シャクシャインという首謀者がいなくなったアイヌ側は戦意を喪失し、戦いは終息しました。

七ヵ条の起請文とアイヌ民族

シャクシャインの戦いの後、松前藩はアイヌに対する交易の主導権を決定的なものにします。その結果「七ヵ条の起請文」と呼ばれる約束を結ばせ、絶対服従を誓わせたのでした。一部の米などに関する交易レートは緩和されますが、経済的かつ政治的な支配は強まりました。この戦いを契機に、和人のアイヌに対する待遇は悪化し、数々の悲劇が生まれるようになっていくのです。

像となって後世にまで勇姿を見せる

真歌公園のシャクシャイン像
新ひだか町の真歌公園に建てられたシャクシャインの像。

アイヌ民族を代表して和人に対する蜂起を呼びかけ、奮闘したシャクシャイン。強権的な支配を強め、不平等な交易を強いる松前藩に対して勇敢にも反乱を起こしました。アイヌ諸集団を糾合して徹底抗戦を企てたシャクシャインでしたが、その最期は松前藩による謀殺という、あまりに悲しいものでした。しかし、アイヌのために戦ったシャクシャインは新ひだか町で銅像となってその雄姿をとどめ、アイヌの英雄として今も人々に語り継がれています。

 

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