歴人マガジン

【白虎隊ただ一人の生き残り】北海道の通信の発展に尽力した飯沼貞吉

北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第11回は、会津戦争の悲劇として語り継がれる白虎隊の生き残り「飯沼貞吉(いいぬま さだきち)」です。


幕末、明治新政府軍に立ち向った会津藩は激烈な闘いの末、敗れました。多くの藩士が戦死する中、一番若い16歳から17歳までの藩士達である白虎隊士達は福島県会津若松の飯盛山で集団自決に追いこまれました。その悲劇は今も語り継がれています。その中で、ただ一人生き残った少年がいました。彼の名は飯沼貞吉。彼はある決意の元、明治新政府の逓信省に勤務し、通信技師として電信電話の発展にささげました。そして札幌にも赴任。北海道の通信の発展に尽力しました。

白虎隊の悲劇

会津若松の北東部に位置する飯盛山。ここは、会津藩の拠点、鶴ヶ城とその城下町が一望できる小高い山です。この飯盛山で、幕末の1868年、16歳から17歳の白虎隊士20名が、自ら尊い命を断ちました。

会津藩は徳川第3代将軍、家光の弟にあたる保科正之によって1643年に始まりました。以来、会津藩と徳川家の結びつきは強く、代々の藩主は、「いかなる時でも徳川に忠義を尽くせ」という家訓を頑なに守り続けました。

そして220年が過ぎた幕末、薩・長藩と徳川家が対立し、戊辰戦争が勃発すると、徳川家に加担する会津藩も、薩・長藩が中心の新政府軍に徐々に追い詰められます。戦争は全国各地で激しく繰り広げられ、ついには会津も戦場となりました。その時出陣した会津藩士は、およそ2800名。その中には、若者を中心に結成された白虎隊士の姿もありました。戦況が悪化し、20名の白虎隊士たちはかろうじて飯盛山まで逃れ着きますが、その時彼らが見たものは、藩主の居城、鶴ヶ城が燃えさかる光景でした。彼らは「負け」を確信し、その場で自ら持っている刀で喉を突き、短い人生の幕を閉じたのでした。

ところが、その中で、急所をはずしてしまい、ただ一人生き残った少年がいました。14歳の飯沼貞吉でした。

貞吉はその後、激動の時代から明治・大正・昭和までを生き抜き、情報社会の発展のために尽くしました。貞吉は生涯、白虎隊時代での出来事を語らず、その身の上を伏せていましたが、その体からは、絶えず武士の毅然たる風格が漂っていたといいます。彼の人間形成の土台となったのは、会津藩士なら誰でも子供の頃から叩き込まれる、藩の鉄の掟だったのです。

会津藩士に刻まれた「ならぬものはならぬ」の教え

会津藩の藩校・日新館
会津藩の藩校・日新館

飯沼貞吉は、1854年、会津藩中級藩士の次男として生まれました。会津藩にある藩校・日新館は、文学・医学・数学・天文学まで学ぶことの出来る、学問の殿堂として、全国でも注目を集めていました。会津藩士の子供たちは皆この日新館で人間教育を施されることになっており、貞吉も10歳で日新館の門をくぐりました。

日新館の教育の基礎は、全て掟で固められていました。

一、 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、 卑怯な振る舞いしてはなりませぬ
三、 うそをいうことはなりませぬ ……

以下、これに続く7つの戒めを全員で唱和し、最後に「ならぬものはならぬのです」と締めくくるのです。「ならぬものはならぬ」、それは世の中には理屈や損得では解決できないこともあるという教えでした。子供たちはこの掟を通して、年長者への尊敬と礼儀を覚えながら、親兄弟も及ばぬほどの固い絆とルールで結ばれ、集団行動を身につけていくのでした。

貞吉は文武両道に優れ、抜群の成績で日新館を卒業しました。14歳、多感な年頃ながらその胸中には、しっかりと固い掟が刻まれていました。

貞吉が日新館を卒業した1868年は、日本にとって激動の年でした。年明け早々、薩摩・長州藩を中心に結成された新政府軍が、徳川幕府に反旗を翻し、戦いを挑んできたのです。これが、後世に残る戊辰戦争の勃発です。会津藩主・松平公は、その6年前から幕府の京都守護職を務めており、新選組を動かして、薩・長藩の脱藩浪士の討伐にあたっていました。そのため当然、戊辰戦争の火の粉は、新政府軍の敵となった会津藩全体に及ぼされたのです。「いかなる時でも徳川に忠義を尽くせ」。会津藩に代々伝わる家訓を守り、松平公は、徳川家とともに戦う意を決しました。

白虎隊として出陣

白虎隊の像

会津藩をはじめとする幕府軍は、新政府軍に負け戦を重ね、厳しい局面を迎えていました。そこで、総力戦に備えた会津藩は、フランスの軍隊編成を参考に、全軍を年齢別に4隊構成とする軍制改革を行いました。まず、50歳以上の藩士が「玄武隊」、36歳から49歳までが「青竜隊」、18歳から35歳までが「朱雀隊」、そして最年少の16~17歳で結成されたのが「白虎隊」でした。古代中国の軍神名から取ったこれら4部隊の総勢は、2813名。皆、藩主松平公のため、仲間のために命をかけ、新政府軍を迎え撃ちました。

貞吉は、この時数えでも15歳。16歳から成る白虎隊に入隊できる年齢ではありませんでしたが、日新館の先輩たちが白虎隊に入隊し、お国のために戦おうとしている姿を見ていると、黙っているわけにはいきませんでした。

「私も白虎隊士として、皆とともに戦いたい!」

その意思を貫くため、貞吉は年齢をひとつ偽り、数え年16歳として、白虎隊への入隊を果たしました。

1868年8月、ついに新政府軍による会津攻撃が始まりました。会津軍の主力は、18歳から35歳までの血気盛んな青年藩士で編成した朱雀隊です。ところが新政府軍の勢力はあまりに大きく、戦いから数日で、会津軍は多くの戦死者、負傷者を出しました。

本陣で指揮を執っていた藩主・松平公は、苦悩を深めました。もはや残る戦力は、最年少の白虎隊だけ。いくら藩の一大事とはいえ、まだ少年である彼らを戦場に送るのはとても忍びない。しかし、頼れる戦力は彼らしかいないのです。逡巡を重ね、ついに松平公は決断を下しました。

「白虎隊、出陣せよ!」

出陣の朝、貞吉は家族に最後の別れを告げました。この時父は、青竜隊の中隊頭として出陣中だったため、母が短冊で歌を詠み、貞吉に贈りました。

梓弓向かふ矢先はしげくとも 引きな返しそ 武士の道
(戦況がたとえ激しいものであろうとも、決して引き返してはいけません。それが武士の道なのです)

これは、貞吉が教え込まれた日新館の掟「ならぬものはならぬ」に通ずる言葉でした。感極まって涙ぐむ貞吉に、母はこう諭しました。

「武士の門出に涙は禁物です。喜び勇んで戦場へ向かいなさい」

そして、貞吉の上着の襟にその短冊を縫いこみ、続けました。

「戦場に臨んでは、決して卑怯な振る舞いをしてはいけません。太刀打ちする時は、臆せず、おじけず、思い切って切り込みなさい」

母の壮絶な教えを貞吉はしかと受け止め、戦場へと向かいました。

 

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