飛鳥時代の政治家として有名な聖徳太子。かつてはお札に描かれたこともあり、10人の話を同時に聞き分けられたなど伝説的なエピソードも残されています。本名は厩戸王(うまやとのおう)といい、この由来については厩戸という地名があったという説、母が厩(馬小屋)で産気づいたという説、蘇我馬子(そがのうまこ)の家で誕生したという説があります。そんな聖徳太子ですが、大陸から伝わった仏教を日本に大々的に広めたことでも知られています。
今回は、聖徳太子と仏教の関係、そして彼の功績についてご紹介します。
仏教を巡って争いが起こった飛鳥時代
この時代、蘇我氏(そがうじ)と物部氏(もののべうじ)という有力豪族がいました。両者は仏教を通じて争いあうようになり、聖徳太子もこれに関わることになったのです。
蘇我氏と物部氏の争い
ことの始まりは、宣化天皇3年(538)に欽明天皇が百済(くだら)の聖王から釈迦仏像や経論などを贈られたことです。物部尾輿(もののべのおこし)は今までのように神道を信じるべきだとして仏教に反対しましたが、蘇我稲目(そがのいなめ)は日本も西国を見習ったほうが良いと考え、仏教に賛成でした。こうして賛成派の稲目は欽明天皇から仏像や経論を与えられ、毎日仏像を拝むようになります。
しかし、はやり病が蔓延した際に、尾輿らから「外国の神を拝んだせいで日本の神の怒りに触れた」と仏像を捨てられてしまいました。ここから両者の争いが勃発し、それが子供の代まで続いたのです。
四天王に祈願した聖徳太子
聖徳太子は蘇我氏の血縁だったため、仏教を巡るこの争いで蘇我氏側についていました。
そこで彼は、日本で早くから信仰されていた「四天王」に蘇我氏の勝利を祈願します。四天王とは仏を守護する4人の守護神で、本堂の北に「多聞天(たもんてん/毘沙門天)」、南に「増長天」、東に「持国天」、西に「広目天」を配置することで中央の本尊を守っています。
これらの守護神に「もし勝利したら、感謝の気持ちを込めて寺を建立する」と誓ったところ、見事、蘇我氏は物部氏を滅ぼし勝利しました。聖徳太子はこれに感謝し、摂津国(現在の大阪府天王寺区)に四天王寺を建立したのです。また、物部氏を滅ぼし権力を握った蘇我馬子も、崇峻天皇元年(588)に法興寺(飛鳥寺)建立に着手しています。
政治家としても知られる聖徳太子とは?
やがて政治家として手腕を発揮する聖徳太子ですが、その政治には大陸や仏教の思想がふんだんに盛り込まれていました。
冠位十二階を定める
聖徳太子は日本初の階級制度である『冠位十二階』を制定しました。この制度は漢代や南北朝時代の思想に影響を受けたもので、高句麗(こうくり)や百済での冠位制度を参考に作られています。それまでの日本では豪族それぞれが政治を行っていましたが、聖徳太子はこの冠位十二階によって身分制度の確立と中央集権国家を目指しました。彼は身分に関わらず能力のある人材を役人に登用しようとしたのです。
能力ある個人に初めて12階の官位を与えるこの制度は、儒教の徳目をもとに、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、あわせて十二階とし、五行思想の色である青・赤・黄・白・黒と帝王色の紫に濃淡をつけ冠の色としました。
日本初の憲法!十七条憲法の制定
また、聖徳太子は『十七条憲法』も制定しました。その内容は「和を大切にしなさい」「三宝を敬いなさい」「天皇の命令は慎んで聞きなさい」など官僚・貴族に対する道徳的な規範を記したもので、神道・儒教・仏教の思想を融合してできています。
この憲法の制定の背景には中国の存在がありました。当時の中国の王朝・隋はとても勢力が強かったため、日本が隋に支配されないように、人々をまとめてしっかりとした土台を作る必要があったのです。
この憲法は後世の法典編集に大きな影響を与えました。後の『御成敗式目』『建武式目』『朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)』などは、形式や内容において十七条憲法から多くの影響を受けています。
政界を離れ、仏教を広める
後世に残る制度を作るなど政治的手腕を見せた聖徳太子でしたが、徐々に政治の表舞台から遠ざかっていきます。その後の聖徳太子はどのような暮らしをしていたのでしょうか。
恵慈に学び『三経義疏』を記す
『日本書紀』によれば、聖徳太子は十七条憲法を作ったあと斑鳩宮(いかるがのみや)に移り住み、だんだんと政治の場から離れていったとされています。そして、仏教の布教に力を注いだのです。
高句麗から来日した僧・恵慈(えじ)を師として仏教を学んだ聖徳太子は、『法華義疏(ほっけぎしょ)』『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』という三つの経典の注釈書を記し、それらは『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』と呼ばれました。これは中国の学僧の注釈をもとに独自の解釈を加えたもので、日本の仏教における原点的な意義をもっています。
『三経義疏』を記すにあたっては恵慈も協力しており、法華経について問答したり、帰国時には『三経義疏』を持ち帰ったりしたといわれています。
数々の寺院の建立を手がけた
政治から離れた聖徳太子は、仏教の布教のために多くの寺院も建立しています。その中でも有名なのが「聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)」です。これは聖徳太子が建立したという伝承のある七つの寺の総称で、七大寺には今でも国宝や重要文化財がたくさん残されています。
七大寺
■四天王寺
日本最古の本格寺院です。当初の本尊は四天王で、平安時代に救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)に改めました。聖徳太子が蘇我氏の勝利を祈願し望み通りになったことから建てられたものです。
■法隆寺(別名:斑鳩寺)
聖徳太子が飛鳥から移住した場所です。本尊は薬師如来で、崩御した父・用明天皇の遺志を継いで建てられたといわれています。貴重な仏像や美術品が多く、世界遺産にもなっています。
■中宮寺
法隆寺近くの尼寺です。聖徳太子の妃が、夫の死を悼んで作らせた天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)があります。
■橘寺
聖徳太子生誕の地ともいわれる場所です。現在は衰退していますが、不老不死の果実を植えたという伝説などが伝わります。
■法起寺
法隆寺や中宮寺から少し離れた寺で、世界遺産に登録。聖徳太子の子息・山背大兄王が寺に改めたといわれています。
■広隆寺
聖徳太子信仰の寺として有名で、聖徳太子から譲られた仏像を本尊としています。歴史が古い地域にあり、この寺も京都最古の寺となります。
■葛木(かつらぎ)寺
現在は廃寺で詳細はわかっていませんが、生前に聖徳太子が創建したとされています。
聖徳太子が建立したとされるその他の寺
■斑鳩寺
兵庫県揖保郡太子町にある寺。推古天皇からこの土地を賜った聖徳太子が、「鵤荘(いかるがのしょう)」と名付けて建てたものです。
■河内三太子
大阪府にある「叡福寺」「野中寺」「大聖勝軍寺」の3つの寺を指したもので、諸説あるものの聖徳太子が建立したといわれています。
彼の教えは後世まで伝わる
斑鳩宮で病に倒れた聖徳太子は、志半ばの49歳で亡くなりました。しかし帰国した遣隋使らの努力により、仏教は若い役人や豪族の子供たちに広く浸透していったのです。遣隋使の一人である南淵請安(みなぶちのしょうあん)が開いた塾では、後に名をはせることとなる蘇我入鹿・中大兄皇子・中臣鎌足らが仏教と儒教を学びました。聖徳太子が広めようと尽力した仏教や儒教の教えは、それまでの神道とともに後世まで長く受け継がれることになったのです。
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