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【黒坂辛作とマラソン足袋】カナグリシューズにかけた思い

【黒坂辛作とマラソン足袋】カナグリシューズにかけた思い

大河ドラマ『いだてん』がスタートしました。2020年の東京オリンピックに合わせたこの作品は、例年の大河ドラマとは一味違う雰囲気で注目を集めています。主役は中村勘九郎さん演じる日本代表オリンピック選手・金栗四三(かなくりしそう)ですが、そんな彼を支えた人物の一人が黒坂辛作(くろさかしんさく)です。黒坂はマラソン用の足袋を開発した人物で、金栗の人生に大きく関わっていました。
今回は、黒坂の生涯や人物像、日本マラソン界に及ぼした影響についてご紹介します。

黒坂辛作の生涯とは

まずは黒坂がどんな人生を歩んだのか、またどんな人物だったのかを振り返ります。

播磨屋を創業した足袋職人

明治14年(1881)、兵庫県で生まれた黒坂は21歳で上京したのち、現在の文京区大塚で「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」を創業します。30代の頃、金栗四三と出会って「金栗足袋」を作り、その後、日本初のマラソンシューズ「カナグリシューズ」を開発しました。
黒坂がこのような経緯を辿った背景には、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の存在があります。この学校は柔道の創始者・嘉納治五郎(かのうじごろう)が校長を務めており、心身の育成にスポーツが良いと考え、学生のスポーツを奨励していました。そのため学生らは、放課後に部活動をしたり年に2度のマラソン大会に参加したりしていたのです。
当時はスポーツシューズがなく、学生たちは一般の足袋を履いて運動していました。そのような事情から、学校の裏手にあった播磨屋足袋店は学校御用達の店になっていたのです。

その人物像について

黒坂は金栗と手を組んで、マラソン足袋からランニングシューズ開発に向けて尽力しました。要望通りの商品を開発することは、現在でも簡単なことではありません。しかし、黒坂は地道に改良を重ね、マラソン選手達から愛される足袋を作ることに成功したのです。その人生を振り返ると、彼が忍耐力に優れた努力家だったことがわかるでしょう。まさにプロの足袋職人といえますね。

金栗四三とマラソン足袋の開発

足袋

足袋職人として堅調な働きを見せていた黒坂ですが、金栗との出会いによりマラソン足袋の開発に着手することとなります。マラソン足袋はどのような経緯で誕生したのでしょうか。

マラソン足袋開発のきっかけとは?

この頃の金栗は師範学校の学生で、彼もまた播磨屋足袋店の足袋を使用していました。しかし、オリンピック予選会をこの足袋で走ったところ、折り返し地点で破れてしまったのです。そのため、ゴール時には数日歩けなくなるほど足を負傷してしまいました。

予選会後、金栗は翌年開催のストックホルムオリンピック出場に向けて特訓することになります。一日に長距離を走るため、足袋に摩擦や負担がかかって2~3日で穴が開いてしまいました。金栗は自らこれを修理していましたが、やがて黒坂に破れにくい足袋の開発を依頼します。これが、マラソン足袋開発のキッカケでした。

金栗足袋の開発

新しい足袋の開発を依頼された黒坂は、底を3重にした「マラソン足袋」を作りました。しかしこれは、未舗装の道を走ることを想定して作られていたため、石畳や舗装された道路には対応できなかったのです。結果的に金栗が履いていたマラソン足袋は破れ、ストックホルムでの練習中にひざを傷めてしまいました。

このような経緯から、黒坂は耐久性の高い足袋を作ろうと試行錯誤します。改良した足袋を金栗に履かせ、感想を聞いては改良を繰り返し、4年後のオリンピックを目標に二人三脚で足袋を作り上げたのです。その結果完成したのが「金栗足袋」でした。この足袋はロングセラー商品になり、金栗以外の選手もこの足袋を使用して好成績を出すようになったのです。

ハリマヤの発展と衰退

日の丸とスニーカー

選手たちに大きく貢献した金栗足袋ですが、その改良はさらに続きました。こうしてハリマヤは大きくなっていきますが、やがて時代の波にのまれて衰退していくこととなります。

カナグリシューズを発売

黒坂の開発した金栗足袋は、昭和11年(1936)ベルリンオリンピックの金メダリスト・孫基禎や、昭和26年(1951)ボストンマラソンで優勝した田中茂樹らのシューズとして大活躍しました。しかし黒坂はその後も開発を続け、先の丸いシューズ型に改良したものを「カナグリシューズ」と名付けます。このカナグリシューズは、日本初のランニングシューズとして有名になりました。
昭和28年(1953)ボストンマラソンでは、金栗の弟子である山田敬蔵がカナグリシューズを履いて出場し、2時間18分51秒という世界新記録を樹立して優勝しています。

ライバル社に追い抜かれる

播磨屋足袋店は、取り扱う品の幅が広がるとともに「ハリマヤ運動用品」に改名しました。この頃の日本は高度経済成長期だったため、スポーツ人口も増え、会社も大きく発展していったのです。新技術を積極的に取り入れるハリマヤは、シューズ開発のパイオニアのような存在になっていました。

ところが昭和35(1960)~昭和45(1970)年代、オニツカ(現在のアシックス)のマラソンシューズ「マジックランナー」が台頭し、陸上長距離走の選手らはマジックランナーを履くようになります。このシューズを採用した選手は、オリンピックでメダルを獲得するなど活躍しました。
ライバルの大手メーカーに押されるハリマヤでしたが、さらに革新的な製品を生み出します。アディダスやナイキといった欧米人向けの厚底スニーカーが流行していた中で、ハリマヤは真逆の薄くて軽量なマラソンシューズを追求していきました。こうして昭和57年(1982)に発売された「カナグリ・ノバ」は、フルマラソン一回で履きつぶすほどの薄さだったといわれ、まさに知る人ぞ知るシューズメーカーになったのです。

ハリマヤは、バブル期に飲食業や不動産業にも着手し、最盛期には4億~5億円ほど売り上げがあったといわれています。しかしバブルが弾けた平成3年(1991)には倒産してしまいました。

足袋からシューズへ!職人の意地

業務用ミシン

足袋職人だった黒坂は金栗との出会いがきっかけとなり、ランニングシューズ開発に尽力しました。人気のスニーカーや軽量ランニングシューズは今でこそ普通ですが、当時としてはまったく新しいものだったのです。そのような商品を生み出すには多大な努力を要したことでしょう。ハリマヤは残念ながら倒産してしまいましたが、黒坂と金栗が共に開発したシューズは確かな結果を残しました。その職人としての意地が、素晴らしい商品を産み、大きな記録の樹立に一役買ったといえるでしょう。

 

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